第157章 エピローグ:沈黙の講堂
夜。
〈新寺子屋〉の建物は、山あいの静けさの中に沈んでいた。
昼間のざわめきも、議論の熱も、今は跡形もない。
ただ講堂の窓から、ほのかな光が漏れている。
ひとつだけ灯りの残る部屋――そこに、まだ黒板があった。
白いチョークの文字が、ぼんやりと浮かび上がっている。
「知性とは、限界を意識できる構造。」
その一文の下には、消し跡のように薄く残る別の言葉。
“沈黙は、理解の完成形である。”
茜は教室の扉を静かに開けた。
誰もいない。
机の上に、Ω教授の古い万年筆と、開かれたノートが置かれていた。
最後のページには、淡い筆跡でこう記されている。
“語りえぬものに触れたとき、人は初めて本当の知性を持つ。”
彼女はそっとノートを閉じ、窓の外に目を向けた。
夜空には、ひとつの星が静かに瞬いていた。
光は遠く、だが確かに届いている。
その星の光が放たれたのは、何百万年も前――
それを今、ここで見上げている。
茜は小さく呟いた。
「……アリが見上げた空も、これと同じなんだ。」
思考が一瞬、宇宙の時空を越える。
アリの視界も、人間の視界も、
銀河の知性の視界も、
結局は同じ宇宙の断片を見つめているのだ。
風が吹き、窓のカーテンがゆらめく。
机の上のチョークが転がり、コトリと音を立てた。
その微かな音さえも、教室全体に響く。
茜はその音の消えていく余韻を聴きながら、
ゆっくりと瞼を閉じた。
沈黙――だが、その沈黙の中に、何かが確かに動いている。
思考でも、言葉でもない。
もっと深い層で、宇宙の呼吸のようなものが、
彼女の胸の奥で静かに共鳴していた。
そのとき、Ω教授の声がどこかから響いた気がした。
「知性とは、届かないことを知りながらも、空を見上げる力だ。」
その声は現実か、記憶か、あるいは宇宙の反響か。
茜は目を開け、再び空を見上げた。
星々が、まるで聴き手のいない音楽のように瞬いている。
そこには、言葉も説明もなかった。
ただ、存在の静かな驚嘆だけがあった。
彼女は黒板の前に立ち、
Ω教授の残した言葉の下に、小さくチョークを走らせた。
「沈黙の中に、すべての答えがある。」
書き終えると、教室を見渡した。
誰もいないはずの空間に、
いくつもの“思索の気配”がまだ漂っている気がした。
彼女は灯を消し、静かに扉を閉めた。
外はすでに深い夜。
空いっぱいに星が散らばり、
山の稜線の向こうに、天の川が淡く流れていた。
茜は息を吐き、ひとり言のように呟いた。
「知性は……届かないことを知りながら、それでも空を見上げる存在。」
その言葉は夜気に溶け、遠くへ運ばれていった。
まるで宇宙が、それを静かに受け取ったかのように、
一際明るい星が瞬いた。
そして、〈新寺子屋〉の講堂は完全な沈黙に包まれた。
それは終わりではなく、始まりのような静寂だった。
――沈黙の中で、知性は光になる。
《最終章 了》