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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン15
2000/2200

第156章  驚嘆と沈黙 ― 語りえぬものの美学




 午後の〈新寺子屋〉。

 空は薄い灰色、教室の窓に細い雨が降っていた。

 講義が始まっても、Ω教授はなかなか口を開かなかった。

 ただ、机の上のノートをゆっくりと閉じ、静かに言った。


「――今日は、“沈黙”について話そう。」


 生徒たちは息をのんだ。

 いつも理論や数式、映像で溢れている講義が、今日は何もない。

 黒板にはただ一行、チョークで書かれていた。


“Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen.”

― ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン


 Ωはその文字を指しながら言った。

「“語りえぬものについては、沈黙しなければならない。”

 ――ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の最後の命題だ。」


 茜が小さく呟く。

「……語りえぬもの、って何ですか?」


 Ωは少し笑みを浮かべた。

「それは、“言葉にできないけれど確かにあるもの”だ。

 愛、死、神、そして――存在そのもの。

 論理と言語は、それを完全には包み込めない。

 だが、それでも我々は“感じてしまう”。

 それこそが、人間の知の特異点なんだ。」


 Ωはしばらく沈黙した。

 その沈黙そのものが講義の一部のようだった。

 やがて、リオが静かに言った。


「でも先生……

 もし語れないなら、感じることにも意味はないんですか?」


 Ωは首を横に振った。

「いいや。

 むしろ、感じる行為こそが、知性が限界を超えて触れる唯一の手段だ。

 理性が沈黙したあとに残るのが“感性”だ。

 そこでは“知る”ことと“感じる”ことが同じ意味を持つ。

 驚嘆とは、知性の最後の反射なんだ。」


 Ωは窓の外を見つめながら続けた。

「ウィトゲンシュタインは“沈黙せよ”と言った。

 だが、それは“思考を止めよ”という意味ではない。

 むしろ、言葉を超えた理解の形を探せ、ということだ。

 言語の外には、“感じる哲学”がある。」


 茜が、雨の音に耳を澄ませながら言った。

「……沈黙の中で、世界が生きているのを感じます。

 雨の粒の音も、時計の音も。

 何も言わなくても、何かが伝わってくる。」


 Ωは頷いた。

「それが“驚嘆”だ。

 驚嘆は、世界と自分の境界が消える瞬間に生じる。

 思考ではなく、存在そのものが震える。

 それは言葉の前にある“理解”――

 沈黙の中で生まれる知なんだ。」


 Ωは黒板にもう一つの言葉を書いた。


“沈黙とは、世界が語るのを聴く行為である。”


「人間は多くを語り、説明し、分類する。

 だが、宇宙は沈黙のまま存在している。

 星も、原子も、光も、何も言わない。

 それでも我々はそこに“意味”を感じる。

 その感受の回路こそ、知性の最終形態だ。」


 教室の空気がゆっくりと変わっていく。

 リオがぽつりと呟いた。

「……じゃあ先生、沈黙って、知の終わりじゃなくて、始まりなんですね。」


 Ωは微笑み、頷いた。

「そうだ。

 言葉で語れない世界があることを知るとき、

 知性は初めて“謙虚”になる。

 そしてその謙虚さの中に、

 人間だけが持つ“美学”が生まれる。

 沈黙とは、無知の証ではなく――驚嘆の成熟なんだ。」


 講義の終わり、Ωはノートを閉じて言った。

「今日の課題は、言葉を使わずに世界を感じることだ。

 風の温度、光の角度、音の余韻――

 それらを“説明しない”まま、ただ受け取ってみなさい。」


 誰も返事をしなかった。

 雨の音だけが教室を満たし、

 その静けさの中に、確かに“意味”が宿っていた。


 Ωは最後に黒板を見つめ、チョークで一行だけ残した。


「語りえぬものの中にこそ、世界の核心がある。」


 その言葉を見つめながら、生徒たちはゆっくりと立ち上がった。

 外に出ると、雨はすでに止み、夕暮れの空が淡い光を放っていた。

 沈黙の中に、確かに“世界が語っている”のを感じながら。


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