第153章 時間のスケール ― 永遠と瞬間のあいだ
夕刻、〈新寺子屋〉の教室。
窓の外では、冬の陽が沈みかけていた。
薄橙の光が黒板を斜めに照らし、その影の中でΩ教授は静かに言った。
「今日のテーマは“時間のスケール”だ。
空間の大きさと同じように、時間にも“広がりの感覚”がある。
人は“長い”とか“短い”と感じるが――
その感覚こそが、知性のひとつの限界を示している。」
黒板に三つの名前が書かれる。
ベルクソン, アインシュタイン, 釈迦。
「この三人は、時間をまったく違うものとして見た。
ベルクソンは『持続』、
アインシュタインは『相対性』、
そして仏教は『無常』だ。」
Ωはチョークを指で転がしながら、ゆっくりと説明を始めた。
「ベルクソンにとって、時間とは“流れるもの”だった。
時計が刻む均一な時間ではなく、意識の中を流れる主観的な時間。
楽しい瞬間は短く、苦しい瞬間は長い。
つまり、時間とは量ではなく“質”なんだ。」
Ωは手のひらを開いて見せた。
「私たちは、時間を数えることはできても、感じることは止められない。
それが“生きている時間”だ。」
「では、アインシュタインはどうか?」
Ωはスクリーンを指差した。
そこには時空の格子が描かれていた。
「彼にとって時間は“空間と一体”だった。
観測者の運動によって伸び縮みする。
つまり、時間は観測者の状態に依存する。
どんな永遠も、誰かの速度の上に成り立っている。」
Ωは、淡く笑いながら言った。
「相対論の世界では、“同時”さえ存在しない。
“今”という感覚は、知性が自分のスケールで切り取った幻影なんだ。」
教室が静まる。
生徒の一人、リオが手を挙げる。
「……でも先生、それじゃあ“永遠”なんて存在しないってことですか?
すべてが相対的なら、永遠は幻なんじゃ?」
Ωは黒板に“永遠”と書き、その下に“比較”という言葉を添えた。
「良い質問だ。
“永遠”という概念は、時間を測る存在がいる限り、常に現れる。
なぜなら、永遠とは“短さ”との比較によってしか定義できないからだ。
観測する者がいなければ、“長い”も“短い”も意味を持たない。
ゆえに、永遠は客観的には存在せず、関係として存在する。」
リオが少し考えてから言う。
「じゃあ、“永遠の命”なんていうのも、比喩なんですね。」
Ωは頷いた。
「そう。
だが、その比喩が無意味というわけではない。
仏教では“無常”こそが真実とされる。
すべては変化し続ける――それゆえに、“永遠”を求める心が生まれる。
つまり、永遠とは“無常の中に見る秩序の幻”だ。」
Ωは再びチョークを動かした。
黒板に二つの円を描き、その交点に点を打つ。
永遠(∞)と瞬間(0)のあいだに、私たちは生きている。
「一瞬に永遠を見る力――それが知性の変奏だ。
詩人が一行の詩に世界を閉じ込めるように、
音楽家が一つの和音に宇宙を聴くように、
人間は“瞬間”を通して“永遠”を感じ取る。
この感受の構造こそ、時間のスケール的知性だ。」
リオが微笑む。
「じゃあ、私たちは、永遠を生きるんじゃなくて、
一瞬の中に永遠を“見ている”んですね。」
Ωはその言葉を聞きながら静かに頷いた。
「そう。
そしてその瞬間――
君の意識は、時間の流れそのものと同調している。
それが、“生きる”という現象のもっとも深い意味だ。」
夕日が沈み、教室に長い影が伸びた。
Ωは最後に黒板にこう書いた。
「永遠とは、時間を感じる者の心にだけ現れる光である。」
窓の外では、刻一刻と空の色が変わっていく。
そのわずかな移ろいの中に、
生徒たちは確かに“永遠の断片”を見たような気がした。
《第14講 了》




