第152章 芸術とスケール感覚
〈新寺子屋〉の講堂には、朝の光が静かに差し込んでいた。
窓辺には一台の古いグランドピアノ。
長い間、誰も触れていなかったその鍵盤を、茜がゆっくりと拭いていた。
Ω教授はその様子を見つめながら言った。
「今日は、数学でも物理でもない。
――“音”で宇宙を観測してみよう。」
教室に微かなざわめきが走る。
Ωは微笑みながら続けた。
「芸術とは、スケールを超えるための擬似的拡張装置だ。
言葉や数式では届かないものを、音や色やリズムが掬い上げる。
今日は、宇宙のスケールを“音”に変換する実験をする。」
茜は椅子に座り、深呼吸をした。
スクリーンに映るのは、ハッブル宇宙望遠鏡が撮影した銀河群。
Ωが端末を操作すると、画面には星々の座標データとスペクトルが流れる。
「この数値を“周波数”に変換する。
銀河の距離を音高に、恒星の質量を音圧に。
音としての“宇宙”――それを聴いてみよう。」
茜が最初の鍵を叩いた。
低いA音が鳴る。
それは地球の自転周期を基準に変換された“1日の音”だった。
次に、高音域で細い星の旋律が重なり、
やがて全体が静かな銀河のうねりへと変わっていく。
――音楽が、空間を拡げていく。
Ωは目を閉じて聴いていた。
音はもはや“旋律”ではなく、“構造”だった。
重力の波、星間の距離、光速の遅延――
それらが和音となって重なり、聴く者の身体感覚を超えていく。
「……感じるかい?」
Ωが呟いた。
「音の中に、君たちの身体スケールを超える“遠さ”がある。
それが、芸術のスケール感覚だ。
人間の感覚は有限だが、感情は無限を想像できる。」
音が静かに途切れる。
茜は鍵盤の上で手を止め、目を閉じたまま言った。
「……弾いていると、自分が小さくなる気がします。
でも、不思議と怖くない。
むしろ、広がっていくような……」
Ωは頷いた。
「それが“擬似的拡張”の感覚だ。
人間はスケールを超えることはできない。
だが、感性がその幻を体験する。
理性が限界を描くなら、感性はその外側を“感じる”んだ。」
Ωは黒板に二つの言葉を書いた。
理性:構造を測る。
感性:構造を越えて感じる。
そして言った。
「芸術とは、この二つを結ぶ“架け橋”だ。
詩や音楽や絵画は、
物理的には有限の現象だが、
知覚の中では“無限”を体験させる。
芸術は、物理的限界の中に無限を見せる言語なんだ。」
Ωが茜の背後に歩み寄り、静かに語る。
「数学者は∞を記号で書く。
哲学者は∞を思考する。
だが、芸術家は∞を“感じさせる”。
それは論理の外で起こる“知覚の共鳴”だ。」
茜が鍵盤に指を置く。
今度は、単音ではなく、和音を鳴らした。
小さな音がゆっくりと広がり、
その波がまるで銀河の渦のように重なっていく。
Ωは目を閉じ、静かに微笑んだ。
「その瞬間――君の意識は宇宙と同じ構造を持つ。
小さな身体に、無限の秩序が響いている。」
演奏が終わると、教室は長い沈黙に包まれた。
その静けさの中に、まだ音の残響が生きている。
Ωは黒板に最後の一行を書いた。
「芸術は、知性の外側に開いた感性の窓である。」
茜はゆっくりと立ち上がり、窓の外を見た。
青い空がどこまでも続いていた。
彼女の胸の中では、まだ銀河の音が鳴り続けていた。