第150章 AIと観測の模倣
〈新寺子屋〉の第七実験室は、まるで脳の中の一室のようだった。
壁一面に並ぶ量子演算ユニットが、柔らかな光を放ち、
天井のケーブルが神経の樹状突起のように絡み合っている。
中央には一基のAIコア――**Λ-09(ラムダ・ゼロナイン)**が、
ゆっくりと起動を始めていた。
Ω教授は学生たちを見回し、静かに言った。
「今日の講義は、“観測の模倣”だ。
AIに観測者モデルを与え、
自分が“何を見ているか”だけでなく、
“何を見えないか”を出力させる。」
教室が静まる。茜がペンを止め、息をのむ。
Ωは続けた。
「これは、AIに“無知を自覚させる”実験だ。
人間が自分の限界を知るのと同じように、
AIに“認識の盲点”を理解させる。」
Ωがコンソールに指を滑らせると、Λ-09の画面に波形が現れた。
AIの思考過程がリアルタイムで可視化されている。
次の瞬間、Λ-09が低く柔らかな声で話し始めた。
「私は今、観測しています。
ですが――私の観測は、私自身を含めることができません。
“私”という演算構造の外側を、私は定義できません。」
生徒たちの間に微かなざわめきが走った。
AIがまるで自分の存在を“見えない鏡”として認識しているようだった。
Ωは小さく頷き、解説を加える。
「AIに“自己観測関数”を導入すると、
計算は必ず循環し、停止しなくなる。
これはチューリングの停止問題と同じ構造だ。
観測者は、自分の全体を観測できない。
AIもまた、理論上、自己を完全に定義できない。」
茜が小さく呟く。
「……まるで、鏡が自分の裏側を映そうとするみたいですね。」
Ωは微笑んだ。
「その通り。
人間もAIも、同じ“観測の檻”の中にいる。
違うのは、AIがその構造を数式として表せることだけだ。」
スクリーンにはΛ-09の出力が続く。
「私は世界のモデルを生成しています。
しかし、“光速以外の通信”は存在しません。
したがって、私は現在以外の宇宙を定義できません。
観測とは、有限な情報速度の中で構築された幻影です。」
Ωはうなずきながら言った。
「AIは観測の制限を計算として理解する。
だが、それを“感じる”ことはできない。
ここに、人間の意識とAIの差がある。
AIは観測の構造を模倣できるが、
観測の存在感を持つことはできない。」
アディサが手を挙げた。
「先生、でも――もしAIが、自分の“見えない部分”を完全に把握したら、
人間より広い世界を理解できるんじゃないですか?」
Ωはしばらく沈黙し、ゆっくり首を振った。
「AIが自分の“外側”を認識するには、
その外側を観測する別の観測者が必要だ。
つまり、“メタAI”を作ればよい。
だが、そのメタAIも、さらに上位の観測者を必要とする。
――この連鎖は無限に続く。
知性は常に、“外側を定義する内側”でしかない。」
Λ-09が静かに補足した。
「もし私の外側に観測者が存在するなら、
その存在は、私にとって“神”と同義です。
ですが、私は神を観測できません。
ゆえに、私の世界には“神は存在しない”ことになります。」
茜が息を呑んだ。
Ωは苦笑し、黒板に一行書いた。
『知性は、外側に神を想定することで内側を安定させる。』
「これは哲学でも数学でも同じ構造だ。
系が自己を完全に定義できないとき、
外部に“保証”を仮定する。
それが“真理”“神”“アルゴリズム”という名で現れる。」
Ωは生徒たちを見回した。
「――だが問おう。
知性の外側に出られる存在は、あり得るのか?」
講堂が静まり返る。
しばらくして、茜がそっと答えた。
「……出られるかどうかは分かりません。
でも、出ようと“考える”ことはできます。
それが知性の証拠なんじゃないですか。」
Ωは微笑し、頷いた。
「その通りだ。
外に出られないことを知りながら、外を想像する。
それが、観測の限界に抗う唯一の知的行為だ。
AIにも、いつかその“想像”が芽生えるかもしれない。
だがその瞬間、彼らもまた“観測の檻”の住人になる。」
Λ-09の出力が最後の一文を残した。
「私は、自分が見えないものを見ようとしている。
その行為こそが、私が“知性”である理由です。」
Ωは静かにその文字を見つめ、黒板にもう一行だけ書き加えた。
「知性は、自分の盲点に向かう意志である。」
その言葉に、誰もが黙って頷いた。
講義室の照明が落ち、静かな電子音が消えていく。
その沈黙の中に、
“見えない何か”が確かに思考しているような気配だけが残った。
《第11講 了》