第149章 観測者の終端 ― 意識が宇宙を閉じる時
その夜、〈新寺子屋〉の講堂は嵐の前のように静まり返っていた。
外では風が建物の壁を叩き、遠くで雷鳴が小さく響いている。
Ω教授は、灯りを最小限に絞ったまま、黒板の前に立っていた。
背後のスクリーンには、銀河の画像がゆっくりと回転している。
「今夜は、観測者そのものについて話そう。」
その声は、ほとんど囁きのようだった。
学生たちは、息を呑むようにして耳を傾けている。
「我々はこれまで、“スケールの牢獄”と“光速の檻”を学んだ。
それらは、外部的な制限――物理の法則による枠だった。
だが今夜扱うのは、内側の限界だ。
“観測する者”――つまり、意識そのものの境界だ。」
Ωは、黒板に一つの円を描いた。
そしてその中央に点を打つ。
「この点が“観測者”だ。
円の外は“観測されない世界”。
量子物理では、観測されるまで粒子は存在が確定しない。
つまり、観測とは宇宙の自己定義の行為なんだ。」
Ωは少し沈黙を置き、学生たちを見回した。
茜が小さく呟く。
「……先生、じゃあ観測者がいなかったら、宇宙は存在しないんですか?」
Ωはゆっくりと頷いた。
「少なくとも、“存在する”とは言えない。
それは、まだ定義されていない状態――“未観測宇宙”だ。
物理学的には、可能性の雲。哲学的には、沈黙する存在。」
Ωが指を鳴らすと、スクリーンに実験映像が映る。
真空チャンバー内で、単一光子が放たれる。
スクリーンに干渉縞が浮かび上がる。
Ωは言った。
「誰も見なければ、光子は波として存在する。
誰かが観測した瞬間、粒として振る舞う。
観測が、現実の形を選んでいる。
だから“観測者の消失”は、“宇宙の不確定化”を意味するんだ。」
Ωは一歩前に出た。
「そして――その観測者の中心にいるのが、意識だ。」
Ωは黒板の前に静かに立ち、チョークで一行書いた。
『意識は、宇宙が自分を見るための眼である。』
その言葉の意味を、誰もすぐには理解できなかった。
Ωは、学生たちの沈黙を見守るように言葉を継いだ。
「意識は、脳の産物ではない。
それは、情報の反射点だ。
宇宙が自身の構造を観測しようとするとき、
意識という現象が立ち上がる。
つまり――君たちは、宇宙が“自分を見ている瞬間”なんだ。」
茜が顔を上げた。
「……じゃあ、もし人間が滅びたら、宇宙は“見えなくなる”んですか?」
Ωは小さく微笑んだ。
「そう考える学者もいる。
だが私はこう思う――宇宙は、人間以外の観測者を生み続ける。
それが生命の根源的な意志だ。
観測が途絶えることを恐れる“自己保存”の衝動。
意識とは、宇宙が孤独を避けようとする試みなんだ。」
Ωはスクリーンを切り替えた。
宇宙のエネルギー分布図、背景放射、ブラックホールの影。
やがてそれらが収束し、闇に沈む。
「だが――この宇宙にも終わりがある。
エネルギーは均質化し、星は消え、光すら失われる。
それが“熱的死”だ。
そのとき、観測者もまた消える。
誰も見る者がいない宇宙。
それは、存在しないのと同じだ。」
Ωは静かに目を閉じた。
「だが、ここで重要なのは“終わり”ではない。
終わりを意識できること――それ自体が、観測の証なんだ。」
Ωは黒板の円を消し、代わりに横に一本の線を引いた。
左に「無意識」、右に「宇宙」。
その中間に、ほんの小さな点を書き、こう言った。
「この点が“観測の終端”――意識の地平線だ。
この線の左側は、“まだ観測されていない現実”。
右側は、“観測されすぎて崩壊した現実”。
そのあいだで揺れる点――それが、君たちの知性だ。」
Ωは黒板のチョークを置き、低く語った。
「君たちが目を閉じる瞬間、世界は一度“消える”。
そして目を開くたびに、“再び生まれる”。
その繰り返しこそが――宇宙の脈動なんだ。」
教室を打つ雨音が強くなった。
誰も言葉を発しない。
ただ一つ、時計の針の音がかすかに響いていた。
その音すら、観測によって存在している。
茜は、ゆっくりとノートに書き込んだ。
「見ることは、世界を存在させること。」
Ωはその文字を見つめて、穏やかに微笑んだ。
「そう――そして、見られることは、世界を肯定されることだ。」
Ωは最後に、黒板の余白にもう一つ書いた。
『観測が終わる時、宇宙は眠りにつく。
だが眠りの夢の中で、また“誰か”が目を開く。』
言葉が終わると同時に、外の雷が閃いた。
一瞬、講堂の窓が白く光り、闇が再び戻る。
Ωはゆっくりと顔を上げた。
嵐の中で、宇宙そのものがわずかに呼吸しているようだった。
《第11講 了》