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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン15
1992/2243

第148章 光速の檻 ― 速度の果てにある思考



 夜明け前の〈新寺子屋〉。

 研究棟の奥、厚い遮光ガラスに覆われた実験室で、Ω教授は一人、

 真空チャンバーの調整をしていた。

 静寂の中、機械が呼吸するような音を立てていた。

 遠くから学生たちの足音が近づいてくる。


「おはようございます、先生」


 茜とアディサが入室する。

 Ωは振り向き、微笑んで手を振った。


「おはよう。今日のテーマは、“速度”だ。

 スケール、時間、エネルギー――どれも光速の檻の中にある。

 今日はその“檻の壁”に、君たち自身の思考をぶつけてみよう。」


 室内中央には、透明な球体の装置があった。

 周囲には無数のレーザー干渉計と磁場制御リング。

 装置の内部には、一粒の電子が浮遊している。

 Ωは制御パネルに指を置いた。


「この電子を、光速の99.9999%まで加速する。

 君たちはその世界を、相対論的に“観測”する。」


 Ωがスイッチを入れる。

 瞬間、室内の空気が微かに震えた。

 球体の中で光が螺旋を描き、電子が青白い軌跡を残す。


「さて――これが“光速の檻”だ。」


 Ωはスクリーンを指差した。

 電子の時計が遅れ、質量が増大していく。

 時間が歪み、空間が引き伸ばされていく。


「物理学的には単純だ。

 速度が光に近づくほど、時間は遅れ、エネルギーは無限に近づく。

 つまり“光速”とは、存在が時間から自由になる境界なんだ。

 どんな知性も、この速度を超えて情報を伝達できない。

 だから宇宙は、“光速という速度制限”の中で自己を理解している。」


 Ωは手を止め、生徒たちに向き直る。


「これは、宇宙の思考速度でもある。

 星と星が互いを知るには、光年単位の時間がかかる。

 知性がどれほど進化しても、“今この瞬間”に銀河の端を見ることはできない。

 それが――宇宙の認知限界だ。」


 茜がゆっくりと手を挙げた。

「……でも、先生。思考は光より速い気がします。

 私が“明日の太陽”を想像するとき、

 光を待たなくても、私はすでにそこに行けているような……」


 Ωは、にこりと笑った。

「良い感覚だね。

 君の言う“想像”は、光より速く“情報を結ぶ”力だ。

 だが、厳密に言えば、それは物理的移動ではない。

 思考は光より速く拡がるが、検証は光速以下でしか行えない。

 つまり――“想像”は自由だが、“理解”は遅い。」


 Ωはスクリーンに数式を表示する。


(光速は、真空中の電磁定数によって決まる)


 Ωは続ける。

「この定数が示す通り、光速は“宇宙そのものの性質”だ。

 空間の抵抗値。

 我々の思考もまた、この構造の中でのみ展開できる。

 つまり――知性とは、光の速度で考える装置なんだ。」


 Ωは、レーザーを弱め、電子の軌道を緩やかにする。

 光の粒が静まり、室内に淡い光が満ちた。


「ここで面白いのはね、」とΩは言った。

「光速を越えられないという制約が、

 むしろ**“過去”と“未来”という概念を生み出した**ということ。

 もし全ての情報が瞬時に伝わるなら、

 時間は存在しない。

 因果も、歴史も、意識も、意味を失う。

 君たちが“考える”ことができるのは、

 光が遅れるからなんだ。」


 アディサが驚いた顔で言う。

「……じゃあ、光速って、制限じゃなくて“知性の余白”なんですね。」

 Ωは頷いた。


「その通り。

 思考の速度が光に追いつかないからこそ、

 想像と記憶の間に“世界”が生まれる。

 人間の詩や音楽や愛は、

 光の遅延がもたらした奇跡なんだ。」


 Ωは制御装置の電源を落とし、部屋の照明を元に戻した。

 ホールの窓越しに、夜明けの光が差し込む。

 東の空がかすかに青く染まっている。

 茜はその光を見つめながら、小さく呟いた。


「……この光が、八分前の太陽なんですよね。」


 Ωは微笑み、ゆっくりと頷いた。

「そうだ。

 君がいま感じている“朝”は、八分前の宇宙だ。

 君の心は、常に“過去”を生きている。

 だが、その遅延こそが“現在”をつくる。

 それが、光速の檻の中で生きる知性の宿命だ。」


 Ωは講義の最後に、一枚の紙を黒板に貼った。

 そこには、古びた手書きの文字が記されていた。


「光を追い越すことはできない。

 だが、光の届かぬ闇の中で、

 思考は光を待つ。」


 Ωは振り返り、静かに言った。

「これを書いたのは、百年前の物理学者だ。

 彼はまだ、宇宙の果てを知らなかった。

 それでも、人間の“思考”が光を待ち続けるという事実を理解していた。

 ――君たちは、その意志を継いでいる。」


 講義が終わったあとも、生徒たちは誰一人として立ち上がらなかった。

 皆、静かに窓の外の光を見ていた。

 その光は、遥か彼方の過去から届いたもの。

 しかし、彼らの胸の中では、確かに“今”を照らしていた。


《第10講 了》


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