第148章 光速の檻 ― 速度の果てにある思考
夜明け前の〈新寺子屋〉。
研究棟の奥、厚い遮光ガラスに覆われた実験室で、Ω教授は一人、
真空チャンバーの調整をしていた。
静寂の中、機械が呼吸するような音を立てていた。
遠くから学生たちの足音が近づいてくる。
「おはようございます、先生」
茜とアディサが入室する。
Ωは振り向き、微笑んで手を振った。
「おはよう。今日のテーマは、“速度”だ。
スケール、時間、エネルギー――どれも光速の檻の中にある。
今日はその“檻の壁”に、君たち自身の思考をぶつけてみよう。」
室内中央には、透明な球体の装置があった。
周囲には無数のレーザー干渉計と磁場制御リング。
装置の内部には、一粒の電子が浮遊している。
Ωは制御パネルに指を置いた。
「この電子を、光速の99.9999%まで加速する。
君たちはその世界を、相対論的に“観測”する。」
Ωがスイッチを入れる。
瞬間、室内の空気が微かに震えた。
球体の中で光が螺旋を描き、電子が青白い軌跡を残す。
「さて――これが“光速の檻”だ。」
Ωはスクリーンを指差した。
電子の時計が遅れ、質量が増大していく。
時間が歪み、空間が引き伸ばされていく。
「物理学的には単純だ。
速度が光に近づくほど、時間は遅れ、エネルギーは無限に近づく。
つまり“光速”とは、存在が時間から自由になる境界なんだ。
どんな知性も、この速度を超えて情報を伝達できない。
だから宇宙は、“光速という速度制限”の中で自己を理解している。」
Ωは手を止め、生徒たちに向き直る。
「これは、宇宙の思考速度でもある。
星と星が互いを知るには、光年単位の時間がかかる。
知性がどれほど進化しても、“今この瞬間”に銀河の端を見ることはできない。
それが――宇宙の認知限界だ。」
茜がゆっくりと手を挙げた。
「……でも、先生。思考は光より速い気がします。
私が“明日の太陽”を想像するとき、
光を待たなくても、私はすでにそこに行けているような……」
Ωは、にこりと笑った。
「良い感覚だね。
君の言う“想像”は、光より速く“情報を結ぶ”力だ。
だが、厳密に言えば、それは物理的移動ではない。
思考は光より速く拡がるが、検証は光速以下でしか行えない。
つまり――“想像”は自由だが、“理解”は遅い。」
Ωはスクリーンに数式を表示する。

(光速は、真空中の電磁定数によって決まる)
Ωは続ける。
「この定数が示す通り、光速は“宇宙そのものの性質”だ。
空間の抵抗値。
我々の思考もまた、この構造の中でのみ展開できる。
つまり――知性とは、光の速度で考える装置なんだ。」
Ωは、レーザーを弱め、電子の軌道を緩やかにする。
光の粒が静まり、室内に淡い光が満ちた。
「ここで面白いのはね、」とΩは言った。
「光速を越えられないという制約が、
むしろ**“過去”と“未来”という概念を生み出した**ということ。
もし全ての情報が瞬時に伝わるなら、
時間は存在しない。
因果も、歴史も、意識も、意味を失う。
君たちが“考える”ことができるのは、
光が遅れるからなんだ。」
アディサが驚いた顔で言う。
「……じゃあ、光速って、制限じゃなくて“知性の余白”なんですね。」
Ωは頷いた。
「その通り。
思考の速度が光に追いつかないからこそ、
想像と記憶の間に“世界”が生まれる。
人間の詩や音楽や愛は、
光の遅延がもたらした奇跡なんだ。」
Ωは制御装置の電源を落とし、部屋の照明を元に戻した。
ホールの窓越しに、夜明けの光が差し込む。
東の空がかすかに青く染まっている。
茜はその光を見つめながら、小さく呟いた。
「……この光が、八分前の太陽なんですよね。」
Ωは微笑み、ゆっくりと頷いた。
「そうだ。
君がいま感じている“朝”は、八分前の宇宙だ。
君の心は、常に“過去”を生きている。
だが、その遅延こそが“現在”をつくる。
それが、光速の檻の中で生きる知性の宿命だ。」
Ωは講義の最後に、一枚の紙を黒板に貼った。
そこには、古びた手書きの文字が記されていた。
「光を追い越すことはできない。
だが、光の届かぬ闇の中で、
思考は光を待つ。」
Ωは振り返り、静かに言った。
「これを書いたのは、百年前の物理学者だ。
彼はまだ、宇宙の果てを知らなかった。
それでも、人間の“思考”が光を待ち続けるという事実を理解していた。
――君たちは、その意志を継いでいる。」
講義が終わったあとも、生徒たちは誰一人として立ち上がらなかった。
皆、静かに窓の外の光を見ていた。
その光は、遥か彼方の過去から届いたもの。
しかし、彼らの胸の中では、確かに“今”を照らしていた。
《第10講 了》