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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン15

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1991/3594

第147章 スケールという牢獄



 午前九時。

 〈新寺子屋〉の実験棟には、低い唸りが響いていた。

 壁一面に並ぶ透明の球体――それぞれが“スケール・シミュレーター”だ。

 生徒たちは白衣を着て整列し、Ω教授の合図を待っていた。

 室内の空気は微かに金属の匂いを帯び、

 天井を走る冷却管が一定のリズムで呼吸しているようだった。


 Ω教授はゆっくりと講台に立ち、

 背後のスクリーンに映し出された言葉を指差した。


「知性はスケールの囚人である」


「今日の講義は、この一文に尽きる。

 君たちがどんなに高い知能を持っても、

 身体・時間・エネルギーという三つの壁からは決して逃れられない。

 それを“牢獄”と呼ぶ。」


 Ωが最初のスイッチを押した。

 透明球のひとつが光を放ち、内部の映像が動き始める。

 仮想空間の中で、人間のシルエットが次第に縮小していく。

 周囲の景色が拡大し、

 ついには砂粒一つが山脈のように立ちはだかった。


「――これが、“身体の牢獄”だ。」


 Ωの声が静かに響く。

「生物は、自らの身体スケールを基準に世界を定義する。

 アリにとっての山は人間の靴。

 人間にとっての原子は、概念でしかない。

 知性は、身体の大きさに依存した世界モデルしか作れない。」


 Ωは指を鳴らした。

 球体の内部で、縮小した人影が空を見上げる。

 空には巨大な水滴がゆっくりと落ちてきた。

 それは、彼にとって“隕石”にも等しい速度と質量を持っていた。


「スケールを変えれば、自然法則の“優先順位”が変わる。

 小さな世界では、粘性と表面張力が支配的になる。

 大きな世界では、重力と慣性が支配的になる。

 つまり――知性は、自分のサイズが支配的な力学の範囲でしか合理的ではない。

 アリのロケットは、粘性の宇宙を飛び越えられない。」


 Ωが次のスイッチを押す。

 スクリーンには、時の流れが映る。

 花の開花、雲の流動、人の老化。

 それらがすべて異なるテンポで再生される。


「次に、“時間の牢獄”だ。

 アリの一生は数週間。人間の一生は百年。

 銀河の一周期は二億年。

 ――この時間スケールの差が、知性の“感覚”を決める。」


 Ωは軽く息を吐いた。

「もしアリに哲学があるなら、

 彼らは“永遠”を一日のサイクルとして語るだろう。

 もし銀河に意識があるなら、

 人間の文明など“瞬きの誤差”にすぎない。

 知性の記憶は、時間スケールの長さに比例して世界観を変える。」


 茜が手を上げる。

「……時間の長さが違うと、正しさも変わるんですか?」

 Ωは頷いた。

「そうだ。

 アリにとって、明日の天気は“運命”であり、

 人間にとって、千年後の天気は“想像”だ。

 だから知性は、時間的スケールの中でしか倫理を構築できない。」


 Ωは最後のスイッチを押した。

 球体の中で、ひとつの都市が映し出された。

 無数の光が脈動し、発電所が稼働し、燃料が燃える。

 Ωは言う。


「そして最後が、“エネルギーの牢獄”だ。

 知性は、利用可能なエネルギー総量によって行動範囲を制限される。

 アリの筋肉は1ミリジュール。

 人間は数十メガジュール。

 しかし銀河文明には、恒星単位の出力が必要だ。

 知性の拡張とは、エネルギーの昇華過程なんだ。」


 Ωは静かに続けた。

「だが、エネルギーが増えるほど、“自由”は減る。

 高エネルギー文明は、制御のために構造を複雑化させ、

 やがて自己を拘束するシステムを作り出す。

 つまり――知性は自らの熱力学的安定性に縛られる。」


 教室の空気が重く沈んだ。

 Ωは黒板に三つの円を描いた。

 それぞれに「身体」「時間」「エネルギー」と書き、

 その交点に、小さな点を描いた。


「ここが“人間知性”の位置だ。

 この点の外側には、

 アリも、銀河も、神も、同じように囚われている。

 誰もこの三つの壁を越えられない。」


 茜がそっと呟く。

「……じゃあ、自由な知性なんて、存在しないんですか?」


 Ωは微笑んだ。

「存在しない。だが、自由を夢見る知性は存在する。

 それこそが、知性の証拠なんだ。

 牢獄の中で空を見上げる行為――それが哲学の始まりだ。」


 Ωは装置を停止し、光がゆっくりと消えていった。

 生徒たちは球体の表面に映った自分の姿を見つめる。

 小さく、儚く、しかし確かにそこに在る。


 Ωは最後に言った。


「スケールの牢獄を意識した瞬間、

 君たちはもうその牢獄の囚人ではない。

 なぜなら、自分が囚われていることを知る者こそ、

 “理解する者”だからだ。」


 教室を出た後、茜は空を見上げた。

 夕陽が雲を染め、風が草を揺らしている。

 彼女はふと、自分の呼吸のリズムが宇宙の脈動と重なっているように感じた。

 その瞬間、身体も時間もエネルギーも、

 ひとつの“響き”のように溶け合っていた。


《第9講 了》


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