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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン15
1990/2187

第146章 鏡像としてのアリ ― 人間を見る装置




 〈新寺子屋〉の地下ホールは、まるで巨大な巣穴のようだった。

 天井は低く、壁は岩肌のような質感で、所々に光の孔が開いている。

 空気は少し湿っていた。

 Ω教授は中央に立ち、ゆっくりと周囲を見回した。


「今日は、君たちが“観測される側”になる日だ。」


 その声が響くと、床下の構造体が唸りを上げて動き始めた。

 ホール全体がひとつの巨大なシミュレーターであることに、生徒たちは気づく。

 Ωは装置の制御台に手を置き、設定を入力した。

 音声が低く告げる。


『モード:ANTHRO-REVERSEアントロ・リバース起動。

 観測視点:アリ群知能体シミュレーション。』


 ホールの照明が落ちた。

 暗闇の中、世界が反転する――。


 生徒たちの視界に、眩い光が走った。

 気づくと、自分の身体が小さくなっている。

 まるで粒子のような存在感しかない。

 空気が重く、音は濁流のように遅い。

 Ωの声だけが、どこか遠くで響いている。


「いま、君たちは“アリの神経群”に接続されている。

 この知覚の網は、個ではなく“群れ”として世界を捉える。

 さあ、見てごらん。

 アリたちの知性が、人間文明をどう認識するか。」


 視界が開けた。

 そこには――見慣れた都市の風景が広がっていた。

 だが、それはまるで異世界だった。

 高層ビルは山脈、道路は巨大な溝、車の列は脈動する金属の川。

 街全体が、巨大な有機体のようにうごめいていた。


 Ωの声が続く。

「アリにとって、人間都市は“環境”であり、“生物”でもある。

 それは動き、呼吸し、定期的に光を吐き出す。

 彼らはこの構造体を“長い金属の獣”と呼ぶだろう。

 なぜなら、それ以外の理解方法を持たないからだ。」


 茜が息を呑んだ。

 彼女の脳には、アリ群の思考パターンが直接投影されている。

 言語ではなく、化学的な印象として世界を感じ取っていた。

 匂い、熱、振動、電磁のわずかな揺らぎ。

 人間の社会的活動が、フェロモンの嵐として立ち上っている。


 Ωが語る。

「アリにとって、言葉は匂いであり、時間は湿度だ。

 この知覚体系では、言語的な意味よりも“密度”が情報を運ぶ。

 つまり、存在の濃度が意味になる世界だ。」


 視界の中で、都市の中心――銀座と思しき場所が光り出す。

 そこに集まる無数の人間の行動が、ひとつの“巨大フェロモン源”として見えている。

 人間たちは互いに通信し、金属の箱(車)を交換し、光の記号(広告)を操作している。

 アリの認識では、それらは“情報を媒介する巨大な腺”に見える。


 茜が思わず呟いた。

「……私たち、人間もフェロモンで動いてるみたい。」

 Ωが応じる。

「まさにそう。

 君たちの社会的シグナル――SNS、ニュース、通貨、流行――

 それらは化学信号と同じ。

 情報の濃度差で群れが動く。

 アリと人間は、異なるスケールの同じ存在構造を持っている。」


 Ωが一拍置き、低く言った。

「ただひとつの違いは、“自己意識”だ。

 アリは全体の中で自己を意識しない。

 人間は、全体の中で自己を意識する。

 それが、知性の孤独の始まりだ。」


 Ωが操作を変える。

 視点が都市の地下に移動した。

 無数の線路、通信ケーブル、排気管。

 それらがアリの巣のように絡み合っている。

 Ωが言う。


「もしアリがこの構造を解析したなら、

 こう判断するだろう――“この惑星には、金属の神経を持つ生物が住んでいる”と。

 彼らは都市を一つの巨大生命体として理解するだろう。

 個々の人間の存在など、統計的ノイズにすぎない。」


 茜が眉を寄せた。

「……先生、アリの目には、私たちの“意識”は見えないんですね。」

 Ωは頷く。

「そうだ。

 彼らの観測体系には、“思考”というカテゴリがない。

 ゆえに、意識を検出できない。

 しかし、もし彼らに哲学者がいたなら、こう問うだろう――

 “この金属の獣の中には、見えない心が宿っているのではないか?”と。」


 Ωは装置の出力を上げる。

 視界がさらに拡大し、地球全体が映る。

 人工衛星の軌道、インターネットの通信網、電力網、都市の灯り。

 それらが絡み合い、ひとつの脳神経のような地球像を描いていた。


「これが、アリ視点で見た“人間文明の神経系”だ。

 もしこの映像をアリが見たなら、

 彼らは“この星はひとつの意識を持つ”と信じるだろう。

 それが、我々が神を見る構造と同じだ。」


 Ωの声は穏やかだった。

「つまり、人間はアリにとっての神であり、

 アリは人間にとっての鏡である。

 我々が彼らを観察するとき、

 実際には自分自身の構造を観察しているんだ。」


 装置の光が徐々に薄れ、世界が静かに現実へと戻っていく。

 生徒たちはしばらく言葉を失っていた。

 茜がぽつりとつぶやく。

「……彼らが私たちを観察してると思うと、少し怖いです。」

 Ωは微笑した。

「怖がる必要はない。

 観察されるということは、存在している証拠だ。

 そして君たちがアリを観察することもまた、

 宇宙が“自分自身を観測している”という行為の一部なんだよ。」


 Ωは黒板に一行、静かに書いた。


『観測とは、鏡であり、鏡を見る意識こそ知性である。』


 生徒たちはゆっくりと頷いた。

 それぞれの心に、小さな反射の光が灯る。

 人間とアリ、観測者と被観測者。

 それらが渾然と重なり、

 まるでひとつの思考の海が、静かに波打つようだった。


《第8講 了》


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