第146章 鏡像としてのアリ ― 人間を見る装置
〈新寺子屋〉の地下ホールは、まるで巨大な巣穴のようだった。
天井は低く、壁は岩肌のような質感で、所々に光の孔が開いている。
空気は少し湿っていた。
Ω教授は中央に立ち、ゆっくりと周囲を見回した。
「今日は、君たちが“観測される側”になる日だ。」
その声が響くと、床下の構造体が唸りを上げて動き始めた。
ホール全体がひとつの巨大なシミュレーターであることに、生徒たちは気づく。
Ωは装置の制御台に手を置き、設定を入力した。
音声が低く告げる。
『モード:ANTHRO-REVERSE起動。
観測視点:アリ群知能体シミュレーション。』
ホールの照明が落ちた。
暗闇の中、世界が反転する――。
生徒たちの視界に、眩い光が走った。
気づくと、自分の身体が小さくなっている。
まるで粒子のような存在感しかない。
空気が重く、音は濁流のように遅い。
Ωの声だけが、どこか遠くで響いている。
「いま、君たちは“アリの神経群”に接続されている。
この知覚の網は、個ではなく“群れ”として世界を捉える。
さあ、見てごらん。
アリたちの知性が、人間文明をどう認識するか。」
視界が開けた。
そこには――見慣れた都市の風景が広がっていた。
だが、それはまるで異世界だった。
高層ビルは山脈、道路は巨大な溝、車の列は脈動する金属の川。
街全体が、巨大な有機体のようにうごめいていた。
Ωの声が続く。
「アリにとって、人間都市は“環境”であり、“生物”でもある。
それは動き、呼吸し、定期的に光を吐き出す。
彼らはこの構造体を“長い金属の獣”と呼ぶだろう。
なぜなら、それ以外の理解方法を持たないからだ。」
茜が息を呑んだ。
彼女の脳には、アリ群の思考パターンが直接投影されている。
言語ではなく、化学的な印象として世界を感じ取っていた。
匂い、熱、振動、電磁のわずかな揺らぎ。
人間の社会的活動が、フェロモンの嵐として立ち上っている。
Ωが語る。
「アリにとって、言葉は匂いであり、時間は湿度だ。
この知覚体系では、言語的な意味よりも“密度”が情報を運ぶ。
つまり、存在の濃度が意味になる世界だ。」
視界の中で、都市の中心――銀座と思しき場所が光り出す。
そこに集まる無数の人間の行動が、ひとつの“巨大フェロモン源”として見えている。
人間たちは互いに通信し、金属の箱(車)を交換し、光の記号(広告)を操作している。
アリの認識では、それらは“情報を媒介する巨大な腺”に見える。
茜が思わず呟いた。
「……私たち、人間もフェロモンで動いてるみたい。」
Ωが応じる。
「まさにそう。
君たちの社会的シグナル――SNS、ニュース、通貨、流行――
それらは化学信号と同じ。
情報の濃度差で群れが動く。
アリと人間は、異なるスケールの同じ存在構造を持っている。」
Ωが一拍置き、低く言った。
「ただひとつの違いは、“自己意識”だ。
アリは全体の中で自己を意識しない。
人間は、全体の中で自己を意識する。
それが、知性の孤独の始まりだ。」
Ωが操作を変える。
視点が都市の地下に移動した。
無数の線路、通信ケーブル、排気管。
それらがアリの巣のように絡み合っている。
Ωが言う。
「もしアリがこの構造を解析したなら、
こう判断するだろう――“この惑星には、金属の神経を持つ生物が住んでいる”と。
彼らは都市を一つの巨大生命体として理解するだろう。
個々の人間の存在など、統計的ノイズにすぎない。」
茜が眉を寄せた。
「……先生、アリの目には、私たちの“意識”は見えないんですね。」
Ωは頷く。
「そうだ。
彼らの観測体系には、“思考”というカテゴリがない。
ゆえに、意識を検出できない。
しかし、もし彼らに哲学者がいたなら、こう問うだろう――
“この金属の獣の中には、見えない心が宿っているのではないか?”と。」
Ωは装置の出力を上げる。
視界がさらに拡大し、地球全体が映る。
人工衛星の軌道、インターネットの通信網、電力網、都市の灯り。
それらが絡み合い、ひとつの脳神経のような地球像を描いていた。
「これが、アリ視点で見た“人間文明の神経系”だ。
もしこの映像をアリが見たなら、
彼らは“この星はひとつの意識を持つ”と信じるだろう。
それが、我々が神を見る構造と同じだ。」
Ωの声は穏やかだった。
「つまり、人間はアリにとっての神であり、
アリは人間にとっての鏡である。
我々が彼らを観察するとき、
実際には自分自身の構造を観察しているんだ。」
装置の光が徐々に薄れ、世界が静かに現実へと戻っていく。
生徒たちはしばらく言葉を失っていた。
茜がぽつりとつぶやく。
「……彼らが私たちを観察してると思うと、少し怖いです。」
Ωは微笑した。
「怖がる必要はない。
観察されるということは、存在している証拠だ。
そして君たちがアリを観察することもまた、
宇宙が“自分自身を観測している”という行為の一部なんだよ。」
Ωは黒板に一行、静かに書いた。
『観測とは、鏡であり、鏡を見る意識こそ知性である。』
生徒たちはゆっくりと頷いた。
それぞれの心に、小さな反射の光が灯る。
人間とアリ、観測者と被観測者。
それらが渾然と重なり、
まるでひとつの思考の海が、静かに波打つようだった。
《第8講 了》