第145章 認識論的地平線 ― 知性の視野の外側
午前の陽が、ガラス天井を淡く染めていた。
〈新寺子屋〉の講堂はいつもより静かだった。
前回の量子実験の余韻が、まだ生徒たちの表情に残っている。
Ω教授は、ゆっくりと講壇に立つと、開口一番こう言った。
「――知性とは、誤りの上に立っている。」
講堂に、微かなざわめきが走った。
Ωは少し笑みを浮かべた。
「前回、君たちは“観測不能性”を学んだね。
今日は、その反対側――“観測できると思い込む錯覚”を扱おう。」
Ωが手を上げると、空間に映像が現れた。
一本のロウソクの炎。
その光がゆらぎ、教室の壁に影をつくる。
Ωは言った。
「我々が“世界を見ている”と思うとき、
実際には“影”を見ているだけだ。
これはプラトンの洞窟の比喩だが、
現代科学でもまったく同じことが起きている。」
Ωは、ホログラムに人間の脳の断面を映し出した。
神経活動のシミュレーション。
色と光が複雑に交差し、電気信号が脈動している。
「脳は、外界を直接“見て”いない。
君たちが“見ている現実”は、感覚器からの信号を統計的に再構成した仮想空間だ。
つまり、人間は“脳の中の宇宙”に生きている。
君たちの視野の端に、存在していないはずのものが“見える”ことがあるだろう?
あれが、認識の地平線だ。」
茜が呟く。
「……じゃあ、本当の現実は、私たちが見ているものとは違うんですね。」
Ωは頷く。
「その通り。だが、問題はそこから始まる。
我々は、その“限界”をすぐに忘れる。」
Ωが次に映し出したのは、AI視覚モデルの解析結果だった。
複雑なデータの層が幾重にも積み重なり、
一つの“世界像”を生成している。
「AIもまた、君たちと同じだ。
大量の観測データから“世界モデル”を構築する。
だが、見えていない部分は補完してしまう。
“見えない”という事実を、AIは自覚できない。
人間は、自分が“知らない”ことを知る。
AIは、“知らないことを知らない”。」
Ωは静かに言葉を続けた。
「だが近年、人間もまたAIのように、
“知らないことを知らない”存在に近づきつつある。
情報があまりにも多すぎて、
知の飽和が“盲点の拡大”を生んでいる。」
Ωは指を鳴らす。
ホログラムが切り替わり、地球全体の情報流通図が浮かび上がる。
無数の通信線、衛星、データセンター。
そしてその外側に、黒い空白の帯。
「これが現代文明の“認識マップ”だ。
情報は地球全体に広がっているが、
人間の知覚が届く範囲は、この内側――“白い膜”だけだ。
その外にある“黒い空白”を、誰も見ようとしない。
なぜなら、“情報がない領域”は“存在しない”と思ってしまうからだ。」
アディサが眉を寄せて言う。
「……それって、知性の怠惰ですか?」
Ωは首を横に振った。
「怠惰ではない。
本能的な自己防衛だ。
“知らないこと”を知ると、存在が不安定になる。
だから人間は、“分かる範囲”で世界を完結させようとする。
しかし――そこにこそ、知の最大の罠がある。」
Ωの声が少し低くなる。
「知性は、理解できるものしか理解しない。
そして、自分が理解できないものを、存在しないとみなす。
その瞬間、知性は“世界の外側”を失う。
認識論的地平線とは、
この“自己満足の境界”のことだ。」
Ωはゆっくりと歩きながら、黒板に線を引いた。
片方に“既知”、もう片方に“未知”。
その間に、薄いグレーの帯を描く。
「この帯こそが、知の“ゆらぎ”の領域だ。
科学者が仮説を立て、芸術家が直感を描くのは、いつもこの灰色の帯の中。
だから知性の成長とは、
この帯を“広げ続ける”営みなんだ。」
茜がそっと手を上げた。
「……でも先生、もしこの帯を広げすぎたら、
人間は“何も信じられなく”なりませんか?」
Ωは静かに頷いた。
「その危険はある。
だからこそ、知性には倫理が必要なんだ。
“分からない”を受け入れることは謙虚さだが、
“何も分からない”と信じることは絶望だ。
人間の理性は、希望と無知のあいだでバランスを取る必要がある。」
Ωは少し微笑んだ。
「つまり、知の倫理とは、
“分からないまま考え続ける勇気”のことなんだよ。」
Ωは最後に、黒板の灰色の帯の中央を指差した。
そこに光の点をひとつ描いた。
「ここが、君たちだ。
見える世界と、見えない世界の境目。
君たちが思考するたび、この点は震え、少しずつ広がっていく。
その震えが、“理解”と“想像”の交点――
つまり、人間知性そのものなんだ。」
講義が終わるころ、外はすっかり昼になっていた。
生徒たちはそれぞれのノートに黙々とメモを取っていた。
茜のページには、ひとつの言葉が残っていた。
「見える世界を信じることと、見えない世界を恐れないこと。」
Ωはその文字を見て、静かに微笑んだ。
「よく書けたね。
次の講義では、その“見えない世界”を、
もう一度鏡のように見つめてみよう。
観測者自身が観測されるとき、
知性はどこへ行くのか。」
《第7講 了》




