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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン15

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1987/3601

第143章 カントの地平 ― 物自体と現象界




 夜。

 〈新寺子屋〉の講堂には、月光だけが差し込んでいた。

 昼の講義とは違い、今夜は特別講座——「知の哲学夜話」。

 Ω教授は、照明をすべて落としたまま、月明かりの中に佇んでいた。


「君たちはもう、“世界を圧縮する生き物”であることを学んだ。

 だが今日は、もう一歩踏み出そう。

 ――我々が“圧縮しきれない世界”について話そう。」


 Ωの声は、暗闇の中で静かに響いた。

 壁にかすかに光の線が浮かぶ。

 数式でも図でもない、ただひとつの言葉だった。


“物自体(Ding an sich)”


「これは、十八世紀の哲学者イマヌエル・カントが使った言葉だ。

 彼はこう言った——

 『我々が見る世界は“現象界”にすぎず、

  その背後に“物自体”がある。

  だが我々は、それを決して知ることはできない。』」


 Ωは静かに言葉を区切る。

 生徒たちは息を潜めて聞いていた。

 誰も動かない。空気さえ止まっているようだった。


「我々が“山”と呼ぶものは、実際には光の反射と脳の再構成だ。

 “音”も、鼓膜の振動を神経が意味づけた結果。

 “時間”すら、知性の内部時計が作り出した順序の感覚にすぎない。

 つまり、**我々が知っている世界は“人間用の翻訳版”**だ。」


 Ωの背後にホログラムが浮かび上がる。

 そこには、地球を取り囲む薄い膜のような光が描かれていた。


「この膜が“現象界”。

 君たちはこの膜の内側に閉じ込められた観測者だ。

 外には“物自体”がある。

 しかし、その外を直接見ることはできない。

 我々が“宇宙”と呼ぶのは、この膜の裏側を想像したものなんだ。」


 茜が小さな声で問う。

「……じゃあ、現実って、私たちの脳が作った幻なんですか?」

 Ωはゆっくり頷いた。

「幻、だが実在的な幻だ。

 なぜなら、君が感じている痛みも、悲しみも、

 この“現象界”の構造に属している。

 それは錯覚ではない。

 ただ、“真の世界”ではないというだけだ。」


 Ωは一歩前に出て、空間に光の立方体を描く。

 その中に、波、粒子、文字、音符、匂いの粒子が浮かぶ。

 まるで世界そのものが箱に詰められているようだった。


「知性は、この“箱”の中でしか思考できない。

 アリが地球の果てを知らないように、

 人間も“実在”の果てを知ることはできない。

 だが——」

 Ωはそこで一瞬、声を低めた。


「――意識という現象だけが、

 箱の内と外を“感じ取る”。」


 その言葉に、生徒たちは顔を上げた。


「意識とは、“知らないことを知っている”状態だ。

 我々は、自分が“知らない”ことを理解できる。

 それは、知性の最も奇妙な特性だ。

 カントのいう“理性の限界”とは、

 この自己意識のことでもある。」


 Ωは壁面に光の線を描いた。

 それは一本の境界線。

 左側に「現象界(Phenomena)」、右側に「物自体(Noumenon)」と書かれる。


「ここが、“認識の地平線”。

 この線を越えることはできない。

 しかし——」

 Ωは間を置き、微笑んだ。

「人間は、その“越えられない線”を見つめてしまう生き物なんだ。」


 Ωは指先で線をなぞった。

 線が淡く光を放つ。

 その光は、まるで星雲のように拡散していった。


「科学者はこの線の“外側”をモデル化しようとする。

 芸術家はこの線の“輪郭”を描こうとする。

 宗教者はこの線の“向こう”に神を見ようとする。

 つまり、**すべての知の営みは“物自体への遠い祈り”**なんだ。」


 講堂の奥から、アディサがゆっくり手を挙げた。

「先生。

 もし“物自体”が本当にあるなら、

 それを感じることはできないんですか?」


 Ωは少し間を置いた。

 その沈黙に、風の音だけが混ざった。


「感じることはできる。

 だが、それを言葉にすることはできない。

 詩人が“永遠”を歌い、

 音楽家が“無限”を奏でるとき——

 それは、“物自体”が心の裏面に触れた瞬間だ。

 だが、その触感を理性が翻訳した途端、

 それは“現象界の音楽”に変わってしまう。」


 Ωは講堂をゆっくり見渡した。

 全員の顔が月光に照らされている。

 その光景はまるで宗教画のようだった。


「君たちが“真理”を求めるのは、

 到達するためではなく、

 到達できないことを自覚するためなんだ。

 それが“理性の倫理”だ。

 知性とは、無知を知る勇気のことだ。」


 Ωが最後に黒板へ近づき、

 静かにチョークで一行書いた。


『現象の奥に、永遠の沈黙がある。』


 茜が息を呑んだ。

 Ωは彼女を見て、穏やかに言った。

「だが、その沈黙を恐れる必要はない。

 それを感じ取れることこそ、君たちが“意識ある存在”である証だ。」


 講義が終わるころ、窓の外には薄明かりが戻りつつあった。

 夜と朝の境界線。

 Ωはその光を見つめながら、低く呟いた。


「この世界のすべての美しさは、“見えないもの”の影だ。

 次回は、その影の形を“観測不能性”という言葉で追ってみよう。」


 そう言って、Ωの姿は光に溶けるように消えた。


《第5講 了》


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