第143章 カントの地平 ― 物自体と現象界
夜。
〈新寺子屋〉の講堂には、月光だけが差し込んでいた。
昼の講義とは違い、今夜は特別講座——「知の哲学夜話」。
Ω教授は、照明をすべて落としたまま、月明かりの中に佇んでいた。
「君たちはもう、“世界を圧縮する生き物”であることを学んだ。
だが今日は、もう一歩踏み出そう。
――我々が“圧縮しきれない世界”について話そう。」
Ωの声は、暗闇の中で静かに響いた。
壁にかすかに光の線が浮かぶ。
数式でも図でもない、ただひとつの言葉だった。
“物自体(Ding an sich)”
「これは、十八世紀の哲学者イマヌエル・カントが使った言葉だ。
彼はこう言った——
『我々が見る世界は“現象界”にすぎず、
その背後に“物自体”がある。
だが我々は、それを決して知ることはできない。』」
Ωは静かに言葉を区切る。
生徒たちは息を潜めて聞いていた。
誰も動かない。空気さえ止まっているようだった。
「我々が“山”と呼ぶものは、実際には光の反射と脳の再構成だ。
“音”も、鼓膜の振動を神経が意味づけた結果。
“時間”すら、知性の内部時計が作り出した順序の感覚にすぎない。
つまり、**我々が知っている世界は“人間用の翻訳版”**だ。」
Ωの背後にホログラムが浮かび上がる。
そこには、地球を取り囲む薄い膜のような光が描かれていた。
「この膜が“現象界”。
君たちはこの膜の内側に閉じ込められた観測者だ。
外には“物自体”がある。
しかし、その外を直接見ることはできない。
我々が“宇宙”と呼ぶのは、この膜の裏側を想像したものなんだ。」
茜が小さな声で問う。
「……じゃあ、現実って、私たちの脳が作った幻なんですか?」
Ωはゆっくり頷いた。
「幻、だが実在的な幻だ。
なぜなら、君が感じている痛みも、悲しみも、
この“現象界”の構造に属している。
それは錯覚ではない。
ただ、“真の世界”ではないというだけだ。」
Ωは一歩前に出て、空間に光の立方体を描く。
その中に、波、粒子、文字、音符、匂いの粒子が浮かぶ。
まるで世界そのものが箱に詰められているようだった。
「知性は、この“箱”の中でしか思考できない。
アリが地球の果てを知らないように、
人間も“実在”の果てを知ることはできない。
だが——」
Ωはそこで一瞬、声を低めた。
「――意識という現象だけが、
箱の内と外を“感じ取る”。」
その言葉に、生徒たちは顔を上げた。
「意識とは、“知らないことを知っている”状態だ。
我々は、自分が“知らない”ことを理解できる。
それは、知性の最も奇妙な特性だ。
カントのいう“理性の限界”とは、
この自己意識のことでもある。」
Ωは壁面に光の線を描いた。
それは一本の境界線。
左側に「現象界(Phenomena)」、右側に「物自体(Noumenon)」と書かれる。
「ここが、“認識の地平線”。
この線を越えることはできない。
しかし——」
Ωは間を置き、微笑んだ。
「人間は、その“越えられない線”を見つめてしまう生き物なんだ。」
Ωは指先で線をなぞった。
線が淡く光を放つ。
その光は、まるで星雲のように拡散していった。
「科学者はこの線の“外側”をモデル化しようとする。
芸術家はこの線の“輪郭”を描こうとする。
宗教者はこの線の“向こう”に神を見ようとする。
つまり、**すべての知の営みは“物自体への遠い祈り”**なんだ。」
講堂の奥から、アディサがゆっくり手を挙げた。
「先生。
もし“物自体”が本当にあるなら、
それを感じることはできないんですか?」
Ωは少し間を置いた。
その沈黙に、風の音だけが混ざった。
「感じることはできる。
だが、それを言葉にすることはできない。
詩人が“永遠”を歌い、
音楽家が“無限”を奏でるとき——
それは、“物自体”が心の裏面に触れた瞬間だ。
だが、その触感を理性が翻訳した途端、
それは“現象界の音楽”に変わってしまう。」
Ωは講堂をゆっくり見渡した。
全員の顔が月光に照らされている。
その光景はまるで宗教画のようだった。
「君たちが“真理”を求めるのは、
到達するためではなく、
到達できないことを自覚するためなんだ。
それが“理性の倫理”だ。
知性とは、無知を知る勇気のことだ。」
Ωが最後に黒板へ近づき、
静かにチョークで一行書いた。
『現象の奥に、永遠の沈黙がある。』
茜が息を呑んだ。
Ωは彼女を見て、穏やかに言った。
「だが、その沈黙を恐れる必要はない。
それを感じ取れることこそ、君たちが“意識ある存在”である証だ。」
講義が終わるころ、窓の外には薄明かりが戻りつつあった。
夜と朝の境界線。
Ωはその光を見つめながら、低く呟いた。
「この世界のすべての美しさは、“見えないもの”の影だ。
次回は、その影の形を“観測不能性”という言葉で追ってみよう。」
そう言って、Ωの姿は光に溶けるように消えた。
《第5講 了》




