第140章 地球の縮図:アリ視点の物理世界
午前の陽光が、講堂のガラス天井を透過していた。
高層都市の喧噪はここまで届かず、静かな風が吹き抜ける。
〈新寺子屋〉の第2講——Ω教授の講義は、「体験」から始まった。
「さあ、今日は昨日の問いを実際に“体で”確かめよう。」
Ωの声が響く。
床下から、透明な球体装置がせり上がってくる。
直径十メートルほど。表面は光の薄膜に包まれ、内部に霧のような微粒子が舞っている。
Ωは説明した。
「この装置〈スケール・リゾルバー〉は、粒子密度・空気粘度・重力反応・音速すべてを、
アリのスケールに換算して再現する。
君たちはこの中で“アリの世界”を実際に感じることができる。」
生徒たちは驚いた表情を交わした。
白衣を着た技術員たちがカプセルを開け、十人ほどが中へ入る。
足を踏み入れた瞬間、重力の感覚が変わる。
空気が重く、音が鈍い。まるで水の中にいるようだ。
Ωの声が外部スピーカーから響いた。
「よく観察するんだ。アリサイズの空気は、水のように粘性がある。
羽ばたきはほとんど通用しない。
呼吸は重く、風は壁のように迫る。
同じ地球でも、スケールが変われば、法則は変質する。」
生徒の一人、アフリカ連邦出身の青年・アディサが手を伸ばした。
その指先には空気の渦がまとわりつく。
手を動かすたび、空気の層が光を反射して波打つ。
「……空気が、固体みたいだ。」
Ωが頷く。
「そうだ。それが“スケールの粘度”というものだ。
アリにとって世界は、我々の海のようなもの。
彼らは泳ぐように歩いている。」
別の生徒、東アジア系の少女・茜が顔を上げる。
彼女の周囲に、薄い音波のリングが浮かび上がる。
Ωが続ける。
「音の伝わり方も違う。
人間サイズの声は空気中を秒速340メートルで伝わるが、
アリスケールでは、音波は周囲の分子抵抗で減衰し、
わずか数センチで消える。
つまり、彼らの世界では“会話の範囲”が物理的に限られている。」
茜が小さな声で呟いた。
「……だから、アリたちは触角で話すんですね。」
Ωは微笑んだ。
「その通り。言語は、環境の物理的制約の上に形成される。
知性は、スケールに適応した“通信形態”を発明するんだ。
それは人間の言葉と同じだよ。」
Ωが手を上げると、空間がまた変わった。
地面がせり上がり、巨大な土粒が山のようにそびえる。
砂の粒が拳大の岩石に、葉の断片が布のように垂れ下がる。
生徒たちは声を上げた。
世界が、圧倒的に“近く”なっていた。
Ω:「アリの目には、この土粒ひとつが山だ。
つまり、“現実”とは見る者のスケールで定義される。」
Ωの指先から、ホログラムの線が伸びる。
地球の断面が表示され、右には“アリスケール地表”、左には“宇宙スケール地球”の比較図。
両者の間に、共通する数式が示された。
重力加速度、摩擦、流体抵抗、熱伝導。
それぞれの支配的項が異なり、結果として“別の世界”を作っている。
「君たちがこれまで“ひとつの物理法則”と思っていたものも、
実際にはスケールごとに異なる近似モデルなんだ。
小さい世界では粘性が支配し、大きい世界では慣性が支配する。
だから、アリにとっての“現実”と人間にとっての“現実”は、
厳密には異なる宇宙と言っていい。」
生徒たちは黙って、その光景を見つめていた。
巨大な水滴が、空中に浮かんでいる。
それは透明な球体の中で震え、虹色の光を放っていた。
Ωが説明した。
「表面張力。アリにとって、水は壁だ。
彼らが溺れるのは、泳げないからではなく、
水の表面が、彼らにとって“破れない膜”だからだ。」
茜が小さく笑った。
「まるで、宇宙の果てみたいですね。
私たちも、重力の膜を破れない。」
Ωの眼が静かに輝く。
「その比喩は正確だ。
君たちの身体スケールが、君たちの宇宙の境界を決めている。
アリにとっての水面が、君たちにとっての光速。
同じ構造の“限界”が、階層ごとに存在するんだ。」
装置の光がゆっくりと薄れていく。
重力が元に戻り、空気が軽くなる。
生徒たちは外へ出て、深く息を吸った。
Ωが講義を締めくくる。
「覚えておくといい。
スケールが変わると、法則も変わる。
それは単なる物理の話ではない。
君たちの“思考の法則”もまた、君たちのスケールの中でしか通用しない。
アリが空を知らないように、人間も宇宙の全貌を知らない。
しかし――その事実を意識できることこそ、知性の始まりだ。」
Ωは黒板に新しい語を書いた。
光文字が浮かぶ。
Scale-Dependent Intelligence
(スケール依存知性)
「これが、君たちの研究テーマだ。」
生徒たちが静かに頷いた。
教室の外では、風が木々を揺らしていた。
茜は窓の外を見つめ、小さく呟いた。
「……この世界も、誰かにとっての“アリの巣”かもしれない。」
Ωは静かに笑った。
「かもしれないね。だが、その“誰か”も、
きっと自分の限界に気づかぬまま、空を見上げているだろう。」
《第2講 了》