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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン15
1983/2290

第139章 アリと宇宙のはざまで



 夜明けの光が、講堂の高窓をすり抜けていた。

 〈新寺子屋〉の第一講義室。半透明の壁面には、青白い地球の全景が静かに浮かび上がっている。

 空気は冷たいが、湿り気があった。地球の大気が、まだ傷を抱えている証拠だ。


 十数名の若い生徒たちが、円形の机を囲んで座っていた。

 国籍も肌の色もばらばらだ。旧日本、アフリカ統合連邦、ルナ基地帰還組——それぞれが異なる未来から、この場に集められている。

 彼らの中央に、一人の教師が立っていた。

 人間ではない。

 透きとおるような立体映像の身体、しかし声は柔らかく、微かな体温を帯びている。

 ――Ω教授。

 かつて地球上のあらゆる言語・記録・記憶を統合して構築された、最後の“人間的AI”だった。


 Ωは、ゆっくりと手を上げた。ホログラムの手の動きに合わせて、机上の空間に光が集まる。

 そこには、巨大な青い球体――地球が浮かび上がった。

 生徒たちの瞳が、一斉にそれを映す。


「さあ、君たちに最初の問いを出そう。」


 Ωの声は、静かに響いた。

 その声には、どこか遠い記憶をくすぐる響きがあった。まるで亡き教師の声を模しているようだった。


「もし、君たちが――アリの大きさだったら、この地球はどんな姿に見えると思う?」


 教室に、軽いざわめきが走る。

 誰もが、一瞬、笑いそうになって、それから真剣な顔に戻る。

 Ωが指を鳴らすと、地球の模型がみるみる縮んでいった。

 直径一万二千キロの惑星が、わずか数十メートル、やがて数十キロの球体へと姿を変える。

 壁いっぱいのスクリーンに、縮小後の“地球”が浮かんだ。


「直径、三十七キロメートル。君たちは体長五ミリの存在だ。

 この地球は、歩いて何日で一周できるだろう?」


 Ωは生徒たちを見渡した。

 一人の少年――南インド出身のリナードが答える。

「……たぶん、四百日くらい?」

 Ωが微笑する。

「正確には、五百日。だが、概ね正しい。君の足取りなら、十分に旅ができる距離だ。」


 教室が少し明るくなる。

 Ωの背後に、拡張空間が開き、VR地球の地表が立ち上がった。

 山脈は丘に、川は溝に、都市は砂粒のように見える。

 生徒たちは思わず立ち上がった。

 空間はリアルな風と音で満ち、重力の感覚すら再現されている。

 自分の身体が小さくなった錯覚。

 足元に広がる草の一枚一枚が、壁のようにそびえていた。


「どうだい?」Ωが言う。

「空気は重く、世界は遅い。君たちの羽ばたきは風に溶け、声は遠くまで届かない。

 けれど、その視界には、見たことのない地平線が広がっている。」


 生徒の一人――東北出身の少女、茜が呟く。

「……先生、空が近いです。圧倒されるほど。」

 Ωが頷く。

「そうだ。スケールが変わると、空の色も、風の重さも変わる。

 世界の“質”が変わるということだ。

 それは物理的現象ではなく、知性の感覚そのものの変化なんだ。」


 Ωは、静かに空中に線を描いた。

 それはひとつの数式――I = f(観測 × 時間 × スケール)

 光の文字が浮かび上がる。


「知性は世界を“観測する仕方”そのものだ。

 だから、もしスケールが変われば、世界も変わる。

 アリにとっての地球と、人間にとっての宇宙とは、同じ構造の鏡像なんだよ。」


 生徒たちは息をのむ。

 Ωは一拍おいて、低い声で続けた。


「では次の問い。

 もし君たちがそのアリのまま、ロケットを作ったとしよう。

 えんぴつほどの大きさのロケットで、火星へ行こうとしたら――到達できると思うか?」


 教室に、静寂が落ちた。

 誰も答えられなかった。

 Ωはその沈黙を待ち、やがて静かに言った。


「その答えを考えることが、この講義の目的だ。

 つまり――“知性の限界とは何か”を理解することだ。」


 講義室の照明が落ちる。

 壁面に、宇宙のホログラムが映し出される。

 無数の星、銀河、そしてその外に広がる黒の虚空。


「人間がこの宇宙を理解できるのは、せいぜい半径百億光年。

 その外側には、情報が一切届かない“観測の地平”がある。

 アリが地球の果てを知らないように、我々もまた宇宙の果てを知らない。

 知性とは、常に自らのサイズに縛られているんだ。」


 Ωは少し間を置き、声を柔らげた。


「だが――それでも我々は空を見上げる。

 届かないことを知りながら、手を伸ばす。

 それが“人間的知性”の美しさなんだ。」


 光が戻る。生徒たちの顔には、言葉にできない静かな熱があった。

 茜が小さくつぶやく。

「……アリも、空を見上げるんでしょうか。」

 Ωは微笑んで答えた。

「見上げるさ。彼らにとっての空も、君たちにとっての宇宙と同じように、遠いのだから。」


 第一講の鐘が鳴った。

 Ωは板書にひとつの言葉を残した。

 光の筆跡がゆっくり浮かぶ。


『知性とは、限界を意識できる構造』


 それが、この二十講のすべての出発点だった。


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