第139章 アリと宇宙のはざまで
夜明けの光が、講堂の高窓をすり抜けていた。
〈新寺子屋〉の第一講義室。半透明の壁面には、青白い地球の全景が静かに浮かび上がっている。
空気は冷たいが、湿り気があった。地球の大気が、まだ傷を抱えている証拠だ。
十数名の若い生徒たちが、円形の机を囲んで座っていた。
国籍も肌の色もばらばらだ。旧日本、アフリカ統合連邦、ルナ基地帰還組——それぞれが異なる未来から、この場に集められている。
彼らの中央に、一人の教師が立っていた。
人間ではない。
透きとおるような立体映像の身体、しかし声は柔らかく、微かな体温を帯びている。
――Ω教授。
かつて地球上のあらゆる言語・記録・記憶を統合して構築された、最後の“人間的AI”だった。
Ωは、ゆっくりと手を上げた。ホログラムの手の動きに合わせて、机上の空間に光が集まる。
そこには、巨大な青い球体――地球が浮かび上がった。
生徒たちの瞳が、一斉にそれを映す。
「さあ、君たちに最初の問いを出そう。」
Ωの声は、静かに響いた。
その声には、どこか遠い記憶をくすぐる響きがあった。まるで亡き教師の声を模しているようだった。
「もし、君たちが――アリの大きさだったら、この地球はどんな姿に見えると思う?」
教室に、軽いざわめきが走る。
誰もが、一瞬、笑いそうになって、それから真剣な顔に戻る。
Ωが指を鳴らすと、地球の模型がみるみる縮んでいった。
直径一万二千キロの惑星が、わずか数十メートル、やがて数十キロの球体へと姿を変える。
壁いっぱいのスクリーンに、縮小後の“地球”が浮かんだ。
「直径、三十七キロメートル。君たちは体長五ミリの存在だ。
この地球は、歩いて何日で一周できるだろう?」
Ωは生徒たちを見渡した。
一人の少年――南インド出身のリナードが答える。
「……たぶん、四百日くらい?」
Ωが微笑する。
「正確には、五百日。だが、概ね正しい。君の足取りなら、十分に旅ができる距離だ。」
教室が少し明るくなる。
Ωの背後に、拡張空間が開き、VR地球の地表が立ち上がった。
山脈は丘に、川は溝に、都市は砂粒のように見える。
生徒たちは思わず立ち上がった。
空間はリアルな風と音で満ち、重力の感覚すら再現されている。
自分の身体が小さくなった錯覚。
足元に広がる草の一枚一枚が、壁のようにそびえていた。
「どうだい?」Ωが言う。
「空気は重く、世界は遅い。君たちの羽ばたきは風に溶け、声は遠くまで届かない。
けれど、その視界には、見たことのない地平線が広がっている。」
生徒の一人――東北出身の少女、茜が呟く。
「……先生、空が近いです。圧倒されるほど。」
Ωが頷く。
「そうだ。スケールが変わると、空の色も、風の重さも変わる。
世界の“質”が変わるということだ。
それは物理的現象ではなく、知性の感覚そのものの変化なんだ。」
Ωは、静かに空中に線を描いた。
それはひとつの数式――I = f(観測 × 時間 × スケール)
光の文字が浮かび上がる。
「知性は世界を“観測する仕方”そのものだ。
だから、もしスケールが変われば、世界も変わる。
アリにとっての地球と、人間にとっての宇宙とは、同じ構造の鏡像なんだよ。」
生徒たちは息をのむ。
Ωは一拍おいて、低い声で続けた。
「では次の問い。
もし君たちがそのアリのまま、ロケットを作ったとしよう。
えんぴつほどの大きさのロケットで、火星へ行こうとしたら――到達できると思うか?」
教室に、静寂が落ちた。
誰も答えられなかった。
Ωはその沈黙を待ち、やがて静かに言った。
「その答えを考えることが、この講義の目的だ。
つまり――“知性の限界とは何か”を理解することだ。」
講義室の照明が落ちる。
壁面に、宇宙のホログラムが映し出される。
無数の星、銀河、そしてその外に広がる黒の虚空。
「人間がこの宇宙を理解できるのは、せいぜい半径百億光年。
その外側には、情報が一切届かない“観測の地平”がある。
アリが地球の果てを知らないように、我々もまた宇宙の果てを知らない。
知性とは、常に自らのサイズに縛られているんだ。」
Ωは少し間を置き、声を柔らげた。
「だが――それでも我々は空を見上げる。
届かないことを知りながら、手を伸ばす。
それが“人間的知性”の美しさなんだ。」
光が戻る。生徒たちの顔には、言葉にできない静かな熱があった。
茜が小さくつぶやく。
「……アリも、空を見上げるんでしょうか。」
Ωは微笑んで答えた。
「見上げるさ。彼らにとっての空も、君たちにとっての宇宙と同じように、遠いのだから。」
第一講の鐘が鳴った。
Ωは板書にひとつの言葉を残した。
光の筆跡がゆっくり浮かぶ。
『知性とは、限界を意識できる構造』
それが、この二十講のすべての出発点だった。