第110章 広島上空:中止命令
広島上空、高度9,500メートル。B-29爆撃機「エノラ・ゲイ」は、まさに最終爆撃航程に入っていた。爆撃手のノルデン照準器のレティクルは、目標である相生橋を完璧に捉えている。
「爆弾倉、開きます!」爆撃手の声が、インターコムに響く。
油圧の鈍い音と共に、爆弾倉のハッチがゆっくりと開かれ始めた。その暗い開口部の奥には、巨大な「リトルボーイ」が、広島へと落下する準備を整えている。機内に緊張が走る。
「投下カウント、5…4…3…2…」爆撃手は、その数字を、生命を刈り取るかのように、冷徹な声で読み上げていく。
その時だった。
「待て!待て!中止命令!中止命令だ!」
通信士の絶叫が、インターコムに叩きつけられた。その声は、極度の緊迫と、信じられないという感情で、ひどく歪んでいた。
ポール・ティベッツ大佐は、操縦桿を握る手を固まらせた。「何があった!?」
「大佐!大統領府からの緊急暗号通信です!投弾中止命令!即時帰投せよ、と!」通信士は、混乱しながらも、電文の内容を叫んだ。
ティベッツ大佐は、一瞬、自分の耳を疑った。この期に及んで、中止?しかし、大統領府からの直接命令だ。それに逆らうことはできない。
「爆撃手!爆弾倉を閉じろ! 投弾中止だ!直ちに機首を向け、帰投航路に入れ!全機にこの命令を伝達!」ティベッツ大佐は、叫ぶように指示した。
爆撃手は、信じられないという顔で、しかし反射的に投下スイッチから手を放し、爆弾倉の閉鎖レバーを引いた。油圧の音と共に、ファットマンを抱いたまま、爆弾倉のハッチがゆっくりと閉じられていく。
「エノラ・ゲイ」は、巨大な機体を傾け、急旋回を開始した。