第124章 僧侶(京都→スイス難民支援拠点)
京都・東山の寺を拠点に避難民の炊き出しと宿泊を続けてきた松永玄道(六十二歳)は、ある日、国連難民機関からの要請を受けた。ヨーロッパに散り散った日本人難民のために、宗教的ケアを担う僧侶を派遣してほしい――。玄道は逡巡した。寺を離れれば京都の避難民を支えられなくなる。しかし弟子たちに任せ、彼自身はスイスの難民支援拠点へ向かうことを決めた。
ジュネーブ郊外のキャンプに到着すると、彼を待っていたのは多様な顔ぶれだった。フィリピンや台湾に逃れた後、再移送されてきた母子。ドイツで治療を受けた病人。カナダへの養子縁組を待つ子ども。彼らは共通して「日本語を話すが、日本に帰る場所を持たない」人々だった。
玄道は仏具を持ち込むこともできず、現地で手に入れた小さな木魚と数珠だけで祈りを始めた。テントの一角に集まった避難民たちは、声を合わせることもせず、ただ静かに耳を傾けた。読経が終わると、一人の女性がすすり泣きながら言った。
「お坊さん、私たちは日本人であり続けられるのでしょうか」
玄道はしばらく黙り、やがて答えた。
「国が壊れても、土地を離れても、心に灯を絶やさなければ、あなたは日本人であり、人間であり続けます」
スイスの拠点は国際社会の縮図だった。シリア、ウクライナ、南スーダンの難民たちが混在し、食料や医療を分け合う。その中に新たに「日本人」という一団が加わった事実は、世界に大きな驚きを与えた。難民は遠い国の問題だと信じていた日本が、ついに同じ列に並ぶ側に立ったのだ。
玄道は各地を巡り歩き、子どもに絵本を読み聞かせ、母親の不安を聞き、若者と将来を語った。ある夜、キャンプの広場で火を囲んだとき、彼は集まった人々にこう語った。
「私たちは失いました。家も街も、祖国という拠り所も。しかし人間の尊厳は誰にも奪えません。ここに生きている限り、希望の火を消してはならないのです」
その言葉に、すすり泣きと拍手が交じり合った。
やがて国際メディアは玄道の活動を報じ、「日本の難民僧侶」と呼んだ。彼はその名を笑い飛ばしつつ、胸の奥では重さを感じていた。かつて祖国を象徴する古都で仏を説いていた自分が、今は国を失った同胞の心を支える唯一の存在のひとりになっている。
大晦日、拠点に鐘の音はなかった。代わりに玄道は鉄パイプを吊るし、子どもたちと共に打ち鳴らした。即席の鐘の響きが雪山にこだました。人々は手を合わせ、涙を流した。鐘の音は言葉を超え、国境を越えて「私たちはまだ生きている」という証となった。
その夜、玄道は日記にこう記した。
「日本人が初めて国外難民となったこの歴史は、痛みと恥の記録ではなく、人の尊厳を守る闘いの始まりである。国を失っても、人は未来を築ける」。
雪に覆われたアルプスの下で、散り散りになった日本人たちは、それぞれの地で生き延びる術を模索していた。玄道は知っていた。いつの日か、この散らばった命が再び結ばれる日が来ると。その時、今日の鐘の音が「希望の合図」として記憶されることを。