第121章 母子家庭(横浜→福岡→フィリピン避難)
佐伯美咲(三十四歳)は、娘の莉子とともに福岡の避難所に身を寄せていた。東京壊滅の混乱を経て横浜から流れ着いたものの、体育館を改造した避難所はすでに人で溢れ、段ボールで仕切られたスペースはわずか畳二畳分。夜になると、周囲からの視線や気配に神経を尖らせなければならなかった。
避難所では物資の不足が続き、特に女性と子どもは弱い立場に置かれた。夜間、若い母親が不審な人物に後をつけられた事件が広まり、女性たちは交代で見張りを立てた。美咲も娘を抱きしめながら、眠れぬ夜を過ごした。
ある日、掲示板に一枚の紙が貼られた。「国外避難プログラム フィリピン共和国が女性・子ども優先で受け入れを開始」。説明会に参加すると、国際協力でマニラ近郊にキャンプが設けられるという。条件は、国外での生活に適応する覚悟を持つこと。美咲は迷った。異国で生きていけるのか。言葉は? 仕事は? だが、莉子の小さな声が背を押した。「ママ、もう怖いのはいや」。
決意した美咲は申請を済ませ、数週間後、空港から輸送機に乗り込んだ。莉子は不安そうに窓の外を見つめ、母は手を強く握り返した。飛行機が夜の海を越えるとき、美咲は思った。――自分は今、日本人として初めて「国外難民」になったのだ、と。
到着したフィリピンのキャンプは、マニラ近郊の工業地帯に設けられた。倉庫を改造した大きな空間に簡易ベッドが並び、現地スタッフと国連職員が忙しく動き回っていた。言葉は通じず、通訳を介して指示を理解する日々。食事は米と豆、時折配られる魚。だが莉子は意外にも早く適応した。近くの子どもたちと片言の英語で遊び始め、笑顔を取り戻したのだ。
一方、美咲にとって適応は容易ではなかった。仕事はキャンプ内の清掃や炊き出しの手伝いに限られ、賃金はわずか。配給と現地の生活保護が頼りだった。周囲には同じように国外に流れた日本人女性が多く、夜には小さな集会が開かれた。「いつか日本に帰れるのか」「ここで子どもを育てるしかないのか」――誰も答えを持たなかった。
キャンプの一角に臨時の学校が開設された。現地教師が英語で授業を行い、日本人避難民のボランティアが補習をした。莉子はそこでアルファベットを覚え、母に「Aはアップルだよ」と誇らしげに教えた。その姿に美咲は涙がこぼれた。子どもは未来を選んで歩こうとしているのに、自分は過去に縛られているのではないか――。
ある晩、美咲はキャンプを見渡す高台に立った。遠くにマニラの灯りが瞬き、湿った風が頬を撫でた。ここは異国、だが確かに「生き延びる場所」だった。彼女は小さく呟いた。
「帰れなくてもいい。莉子が笑って生きていけるなら、それが私の未来だ」
その言葉を胸に、美咲は翌日から再びキャンプの労働に向かった。異国の空の下、日本人としての誇りと母としての責任を抱えながら。




