第115章 母子家庭(横浜→福岡)
横浜で暮らしていた佐伯美咲(三十四歳)は、七歳の娘・莉子の手を握りしめながら、福岡の避難所に到着した。東京壊滅の混乱で横浜の生活基盤は完全に失われ、親族も行方不明。頼れるのは自分一人だけだった。
避難所は市内の大型アリーナを改造した施設で、数千人の避難者がひしめいていた。床にはブルーシートが敷かれ、仕切りは段ボール板のみ。夜になると、周囲のいびきや咳、赤ん坊の泣き声が一斉に響き渡り、眠りは浅く不安定だった。
昼間は配給の列に並ぶ。乾パンや缶詰、わずかな野菜。子どもには粉ミルクが優先されるが、数は足りず、母親たちは順番を争うように声を荒らげた。美咲も必死だった。娘が飢えないために、自尊心を削ってでも前に出なければならなかった。
しかし、夜になると別の恐怖がやってきた。避難所の女性たちの間で「夜間に少女が声をあげた」「仕切りの奥で誰かが手を伸ばしてきた」と噂が流れた。性暴力のリスクは現実として存在し、若い母子世帯は特に狙われやすかった。美咲は莉子を抱いて眠り、周囲に警戒の視線を送り続けた。
ある晩、隣の女性が小声で言った。「女子だけのシェルターがあるらしいわ。警察が巡回してるって」。翌日、美咲は職員に掛け合い、母子専用エリアへ移動することができた。そこは依然として狭く不便だったが、少なくとも夜の恐怖は和らいだ。
だが生活の苦しさは変わらない。仕事を失い、現金も乏しい。支援金は申請から数週間はかかると言われ、先の見通しは立たなかった。美咲は避難所内で募集されていた清掃作業に応募した。わずかな報酬でも、娘のためには必要だった。手にできたのは小さな現金封筒。だが、それがあるだけで心にほんの少しの余裕が戻った。
莉子は避難所に設けられた臨時の教室に通い始めた。子どもたちの声が響く空間は、暗い避難所の中で唯一の光だった。美咲はその姿を見て、胸が締め付けられるような希望を抱いた。娘には「普通の生活」を取り戻させたい。そのためにどんな苦労も耐えようと決意した。
ある日、避難所を訪れた福岡市の職員が説明会を開いた。国外避難プログラム――希望者は韓国や台湾に一時的に移住できる制度が始まったという。手を挙げる人は少なかったが、美咲の心は揺れた。安全と教育を求めて娘を連れて海外に渡るべきか。だが見知らぬ土地で、言葉も通じずに生きていけるのか。不安は尽きなかった。
その夜、莉子が囁いた。「ママ、ここにずっといるの?」。小さな問いに答えられず、美咲はただ娘を抱き寄せた。未来は見えない。けれど、選択を迫られる日は必ず来る。
翌朝、清掃作業に向かう途中、美咲は空を見上げた。福岡の空にはまだ戦火は及んでいない。だが、その平穏がいつまで続くのかは分からなかった。
――生き抜くために、娘を守るために。どんな選択であれ、私は歩み続ける。
そう心に言い聞かせながら、美咲は再び雑踏の中に身を投じた。




