第114章 病院勤務者(東京→名古屋)
看護師・藤川千夏(三十六歳)は、東京・江東区の病院に勤務していたが、霞ヶ関上空で炸裂した原爆とその後の大地震によって職場も自宅も失った。被曝患者と火傷者の収容に追われる中で、自らも被曝の可能性を抱えながら必死で働いた。しかし二週間後、病院は倒壊し、彼女は名古屋に転送されることになった。
名古屋駅の近くに新設された「避難民専用病院」は、体育館を改造した臨時施設だった。ベッドはパイプと板で組まれ、天井にはブルーシート。薬品棚の代わりに段ボール箱が並び、酸素ボンベは常に不足していた。千夏はここで看護師として再び勤務を始めた。
朝から夜まで、患者の叫び声と咳が響き渡る。被曝による白血球減少で感染症が急速に進行する者、津波で溺れ肺に傷を負った者、ストレスで心を壊す者。千夏の手は止まることがなかった。点滴の管をつなぎ、皮膚のただれを洗い、家族を失った子どもの手を握る。その一つ一つが、彼女の体力と心を削っていった。
「看護師さん、私の息子は助かりますか」
ある母親に問いかけられたとき、千夏は言葉を失った。息子は十歳、被曝による急性症状が進行していた。できる治療は全て行ったが、医薬品が決定的に足りなかった。千夏はただ「できる限りのことをします」と答えるしかなかった。
夜になると、避難民専用病院の外に長蛇の列ができる。診察を求める人々が次々と押し寄せ、警備員が声を張り上げて整理する。千夏はその列を見ながら、ふと膝が震えるのを感じた。東京で積み重ねた医療の常識がすべて崩れ去り、ここでは「足りない中で誰を救うか」を迫られる。それは医療者として最も残酷な選択だった。
疲労は極限に達し、同僚の中には倒れる者も出た。千夏も時に廊下で壁にもたれて眠り込み、目が覚めると患者の点滴が落ち切っていることに気づいて青ざめた。自分の手が誰かの命を左右するという重さに押し潰されそうだった。
そんなある日、名古屋の医大からボランティアの医学生たちが派遣されてきた。ぎこちない手つきでガーゼを当て、記録を取る彼らに、千夏は少しずつ教え込んだ。
「ここは教科書通りじゃ通用しない。でも、目の前の人を諦めないこと、それだけは忘れないで」
その言葉に学生の一人が深くうなずいた。
やがて、病院の片隅に「追悼の壁」が設けられた。亡くなった患者の名前を紙に書き、貼り出す簡素なものだった。千夏はそこに何枚もの名前を書き、ペンを握るたびに心が削られた。だが同時に、壁に並ぶ名前が「生きていた証」として残ることに小さな意味を見出した。
夜、狭い宿舎に戻ると、千夏は窓越しに名古屋の街灯を眺めた。そこにはまだ電気が灯り、人々の生活が続いていた。東京を失っても、ここには「日常」が残っている。いつか自分も再びその日常に戻れるだろうか――そんな淡い希望が、彼女を次の日の朝に立たせる力となった。
「私はまだ、看護師でいられる」
その言葉を胸の奥で繰り返し、千夏はまた患者の元へと歩き出した。




