第110章 自衛官の妻(旭川→札幌)
――光景が立ち上がる。薄灰の空、凍てついたアスファルトに列をつくる人々。札幌市内の体育館を転用した避難シェルターの入口で、佐伯真央(三十六歳)は子どもの手を握りしめていた。手袋越しでも伝わる小さな体温が、彼女を辛うじて現実に結びとめている。
夫は陸自の隊員だった。旭川の駐屯地から前線へ。一度だけ短い通信があり、その後は軍からの連絡もぷつりと途絶えた。公式には「戦闘詳報待ち」。だが、数週間後に届いたのは、印字のにじんだ一枚の通知書――〈戦死の疑い〉。確定ではない、だから戦傷病者遺族年金の手続きは「保留」。真央はその文言を何度も読み返し、紙の角で指を切った。赤い血の線が、現実だけを確かに示した。
避難シェルターの夜は長い。天井の蛍光灯は節電で間引かれ、薄闇の中に咳とすすり泣きが交じる。仕切りの段ボールには番号が振られ、彼女と子ども二人に割り当てられたスペースは畳一枚分より少し広い程度だった。夜間、トイレへ行く通路は暗く、人通りの途切れる時間帯は足音の気配ひとつで緊張が走る。隣区画の女性は、夜中に見知らぬ男が覗き込んだと小声で言った。職員に訴えると見回りは増えたが、完全な安心は戻らない。真央は子どもを両側に寝かせ、自分が通路側に体を向けて眠ったふりをした。
日中は手続きに費やされた。役所の特設窓口で番号札を取り、夫の所属・最終確認日時・証明できない出来事の証明を求められる。窓口の職員は誠実だったが、「遺体未収容」の欄に判が押されるたび、彼女は体の芯が冷えるのを感じた。生活支援金は仮払いが出た。だが食料、子どもの防寒具、通学用の交通費――札幌の物価は、紙の数字から容赦なく現金を削り取った。
彼女は「隊員の妻」として敬礼も受けた。自治会の炊き出しでは「ご主人は立派でした」と声をかけられ、新聞の片隅には英雄的な見出しが踊った。拍手と同時に、彼女の買い物かごの中身を覗き込む視線もあった。「支援を受けているのに」と囁きが走る夜もある。名誉は、生活を温めてはくれない。彼女はその事実を、黙って嚙みしめた。
子どもたちは臨時学級に通い始めた。上の子は言葉少なに宿題を積み上げ、下の子は父の不在を現実として受け止められず、夜に熱を出した。寝言で「パパ、雪だるまつくろ」と呟いた声に、真央は布団の中で顔を覆った。母親は強くあるべきだと知りつつ、強さの輪郭が日ごとに崩れていく。
ある日、シェルターの片隅で「遺族サポート会」が立ち上がった。名簿には同じ駐屯地の妻たちの姓が並ぶ。暖かいお茶、配られたメモ帳、行政書士のボランティア。必要書類のチェック、口座凍結の解除、学用品の支給申請――紙の迷路を、誰かと歩くことの救いを知った。帰り際、年上の妻が言った。「泣くのは順番でいい。今日はあなたの番」。真央は謝りながら泣いた。謝る必要はないのだと、泣き終えてから気づいた。
雪が強まる。配給列の足元は泥と氷で混ざり合い、転ぶ人が続出した。真央は長靴の口を結わえ、子どもの靴に新聞紙を詰めた。ポケットの中の小さなカイロは、現金よりも頼りになる気がした。帰路、露天の古着コーナーでほころびた赤い手袋を見つけ、硬貨を数えて買う。下の子の指が、その色で少しだけ明るく見えた。
夜、シェルターの掲示板に新しい張り紙が出た。〈遺体収容情報—氏名不詳/所持品:迷彩手袋、識別票破断〉。番号が夫の所属と重なる。胸の内側で何かが音を立てて崩れたが、崩れたものの形はわからない。確認のための面会は「追って連絡」。待つことは、凍えるより難しい。
翌朝、真央は自分の区画に「起きたら水を汲む、子どもを起こす、窓口二番、学級送迎、配給十五時」と殴り書きした。生きる段取りを書きつけることは、祈りに似ていた。祈りの相手がいなくても、段取りだけは裏切らない。
夕刻、彼女は炊き出しの列で、見慣れた迷彩柄の手袋をした若い隊員に気づいた。彼は一瞬立ち止まり、最敬礼した。「奥様、我々は最後まで探します」。その言葉は軽すぎ、重すぎた。真央は頷き、鍋の湯気に顔を埋める。塩気の強いスープが喉を通り、胃へ落ちていく。温かさは数分で消えるが、その数分が夜を越える橋になる。
――映像が暗転する。残るのは、赤い手袋の色、段ボールの番号、そして「泣くのは順番でいい」という声。名誉と生活のあいだに張られた細い綱の上で、彼女は今日も歩く。明日も歩く。倒れないためではなく、子どもと一緒に渡り切るために。