第104章 釜山の港湾労働者・朴在勲(避難先:日本・福岡)
――光景が切り替わる。雨に濡れた福岡港の岸壁。夜明け前の空気の中で、韓国語の叫び声と日本語の指示が交錯していた。避難船から降り立った釜山の港湾労働者・朴在勲(四十歳)は、震える足で日本の地を踏んだ。
在勲は釜山港でコンテナ荷役の作業員として働いてきた。体力には自信があり、仲間からも頼りにされていた。しかし北の奇襲で港湾が爆撃され、同僚の多くが犠牲となった。家族を連れて避難船に乗り込み、命からがら福岡に到着したのだった。
日本政府は韓国からの避難民を一時的に受け入れると発表していた。だが、数万人単位の流入は予想を超え、福岡や対馬の港には仮設施設が溢れかえっていた。在勲一家も体育館に収容され、毛布と食料を受け取った。初めての夜、隣にいた老婆が「ここは釜山と同じ海の匂いだね」と呟いた。だが在勲には、その海が「帰れない境界」に変わっていることが重くのしかかった。
数週間後、在勲は福岡市内の建設現場で働き始めた。日本政府は労働力不足の補填として避難民の就労を奨励していた。体を動かす仕事は慣れていたが、指示はすべて日本語。最初は何も理解できず、ただ同僚の動きを真似るしかなかった。現場監督に怒鳴られるたび、在勲は「俺は役立たずなのか」と自分を責めた。
妻は清掃のパートに就いたが、言葉の壁に苦しみ、同僚との会話はほとんど成立しなかった。子どもたちは地元の小学校に通い始めた。クラスメイトは親切に接したが、「韓国人」というラベルは常に付きまとった。給食でキムチを残すと「韓国人なのに」と囁かれ、子どもは家に帰ると泣き崩れた。
地域社会もまた揺れていた。商店街では「避難民特需」として売り上げが伸びる一方で、「治安が悪化した」「税金が浪費されている」という噂も広がった。新聞には「韓国難民の受け入れは限界か」という見出しが躍った。在勲は居酒屋のテレビでそのニュースを見て、箸を置いた。周囲の客の視線が突き刺さる気がした。
夜、体育館から移されたアパートの一室で、妻が「韓国に戻りたい」と漏らした。だが戻れる場所はなかった。釜山はすでに戦火に焼かれ、38度線以北はロシア軍が制圧している。帰る場所を失ったことが、彼らを沈黙に追い込んだ。
ある日、現場で日本人作業員が弁当を分けてくれた。温かいご飯と味噌汁の香り。だが同じ口から「韓国人はすぐ帰れるんだろ? 俺たちが助ける必要あるのか」とも言われた。善意と拒絶が入り混じるその言葉に、在勲は何も返せなかった。
やがて夏。建設現場の作業は過酷さを増した。汗にまみれ、重い資材を担ぐたびに、かつて釜山港で仲間と笑い合った日々が頭をよぎった。あの頃の自分は誇りを持って働いていた。だが今はただ生き延びるために働いている。
夜、子どもたちは日本語の宿題をしながら「韓国語を忘れそう」と言った。在勲は胸が締め付けられた。祖国を失うとは、言葉を失うことでもあるのだと悟った。
秋、地域の祭りに招かれた。在勲は太鼓の音に合わせて歩きながら、不思議な感覚に包まれた。日本の文化は韓国と似ている部分も多い。しかしその近さは、逆に「違い」を強調する鏡でもあった。妻は微笑みながらも「ここは私たちの国じゃない」と小声で言った。
それでも、在勲は一つの答えを見つけつつあった。
「ここで生きるしかない。釜山に戻れないのなら、この街で働き、この街で子どもを育てるしかない」
夜明け、工事現場に向かう道すがら、彼は手のひらを見つめた。かつて網を引き、ロープを握りしめたその手は、今は鉄骨を支え、泥を掴んでいる。その違いを受け入れることが、彼に残された唯一の選択だった。
――記憶はそこで途切れる。残ったのは、建設現場の鉄と汗の匂い、子どもの涙声、そして「ここで生きるしかない」という重い呟きだった。