第103章 ソウルの中産家庭・金敏秀一家(避難先:アメリカ)
――光景が揺らぐ。ソウルの高層マンションの一室、窓の外に砲声が響く。金敏秀(四十五歳)、IT企業の中間管理職。妻の恩惠、そして二人の子ども。彼らの暮らしはごく普通の中産家庭だった。家のローンを払いながら週末は車で郊外に出かけ、塾に通う子どもたちの将来を夢見ていた。
しかし北の奇襲で、その生活は一夜にして瓦解した。ニュースは「ソウル陥落間近」と報じ、人々は地下鉄の駅構内に殺到した。敏秀一家も逃げ込んだが、翌日には米国大使館を通じて緊急退避プログラムに登録され、軍用機で釜山からグアム、そして米本土へと運ばれた。
ワシントン郊外に到着した時、敏秀は目の前の光景に言葉を失った。整然とした道路、眩しいほどのスーパーマーケット。安全は保障されていたが、家も仕事も置き去りにしてきた現実が重くのしかかった。
最初の数週間、彼らは米国政府が提供する仮設住宅に入居した。清潔で暖房も効いていたが、隣室からはシリアやアフガニスタンから来た難民の声が聞こえた。妻は「私たちも同じ“難民”なんだね」と呟いた。その言葉に敏秀は胸を突かれた。自分が“支援される側”になるとは夢にも思わなかった。
子どもたちはすぐに現地の学校に通い始めた。英語ができない彼らは最初こそ孤立したが、教師の配慮で言語支援クラスに入り、数か月も経たないうちに友人を作った。放課後、息子が流暢な英語で笑いながら話す姿を見て、敏秀は嬉しさと同時に「自分だけが取り残されている」という焦燥を覚えた。
一方で、仕事探しは難航した。敏秀は韓国でIT管理職として安定した収入を得ていたが、こちらでは資格や職歴の証明が通用せず、英語の壁も大きかった。結局、清掃会社の夜勤を選ばざるを得なかった。重いモップを押しながら、彼は「かつて部下に指示していた自分はどこに行ったのか」と自問した。
妻の恩惠は、教会コミュニティに参加することで心を保っていた。近隣の韓国系移民が衣類や食事を分け与えてくれた。だがその厚意は「移民」と「難民」の線引きを浮かび上がらせた。長年の労働と投資で地位を築いた移民と、戦争で突然流れ着いた難民。その差は日常の言葉や態度ににじんでいた。
ある晩、恩惠は「私たちは恥ずかしい存在じゃない」と強く言った。敏秀は答えられなかった。彼の胸には、ソウルに残した母の姿が焼き付いていた。高齢で移動できず、避難の途中で行方が分からなくなった母。アメリカの安全の中で、彼は母を見捨てた自責に苛まれていた。
子どもたちは成長していった。英語に馴染み、友人たちとアメリカンフットボールやチアリーディングに参加する姿は、もはや“韓国の子ども”ではなく“アメリカの子ども”だった。敏秀は誇らしさと同時に、祖国の文化や言葉を失っていく不安を覚えた。夕食の食卓でキムチを出しても、子どもたちはピザを好んだ。
ある日、子どもが「僕たちは韓国人?アメリカ人?」と尋ねた。敏秀は言葉を失い、ただ「どちらでもある」と答えた。しかしその声は震えていた。
秋、米国議会で韓国難民への長期的受け入れ政策が議論された。永住権の可能性が広がる一方、世論の一部からは「韓国人はすでに豊かな国の出身だ。なぜ我々の税金で支援するのか」という声が上がった。ニュースでその映像を見た夜、敏秀は眠れなかった。
夜勤から帰宅し、眠る家族を見つめる。小さなアパートの空気は静かだった。窓の外に広がる郊外の住宅街は、ソウルとは全く違う世界だった。
「ここで生きるしかない」
彼はそう呟いた。しかし、その言葉が祈りなのか諦めなのか、自分でもわからなかった。
――記憶はそこで途切れる。残ったのは、モップの重さ、子どもが発した問い「僕たちは韓国人?アメリカ人?」、そしてソウルに残した母の影だった。