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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン15
1945/2290

第102章  高雄の女子学生・陳瑋婷(避難先:ドイツ)




 ――記憶の波が揺れる。現れたのは、広々とした石畳の広場。重厚な教会の鐘が鳴り響き、古い建物の間を自転車に乗った学生たちがすり抜けていく。ドイツ南部の大学街。ここで暮らすのは、高雄出身の十八歳、陳瑋婷だ。


 瑋婷は高校三年生の春、台湾を離れた。空港で別れた祖父母の姿を思い出すと胸が痛む。両親は台北に残り、軍属として徴用された。彼女一人が奨学金枠でドイツに渡ることになったのだ。


 最初の数週間、彼女は寄宿施設で暮らした。部屋は白い壁と小さな机だけの簡素なものだったが、同年代の留学生が集まっていた。中国、シリア、ウクライナ、アフリカの国々。皆それぞれ祖国を失い、言葉の壁を抱えながら学ぼうとしていた。


 ドイツは教育機会を難民にも広く開放していた。語学コースに登録すれば授業料は免除され、生活費の一部も補助された。瑋婷はドイツ語の教科書を抱え、毎日発音練習に没頭した。喉の奥で鳴る「R」の音を出そうとすると舌が震え、同室のシリア人の少女と笑い合った。


 だが、笑い声の裏に常に孤独があった。夜、ベッドに横たわると、頭の中に祖父母の声が響いた。「ご飯は食べているか」「寒くないか」。答える相手はいない。彼女は枕を抱きしめ、暗闇の中で涙をこぼした。


 学校では、彼女の勤勉さは評価された。数学や物理の授業ではトップクラスの成績を収めた。教授は「あなたはドイツに残れば必ず未来が拓ける」と言った。だがその言葉を聞くたびに、瑋婷は胸が締め付けられた。台湾に帰ることはできないのか。家族はどうなっているのか。


 ある日、授業で「難民の社会統合」をテーマに討論が行われた。ドイツ人学生が「難民は社会の負担になることもある」と口にした瞬間、瑋婷は体が硬直した。言い返したかったが、ドイツ語の語彙が足りない。代わりにウクライナ人の学生が「私たちはここで生きる努力をしている」と反論した。その声に救われながらも、瑋婷は「私は沈黙しかできなかった」と自分を責めた。


 日常生活でも同化の難しさは続いた。スーパーではソーセージやパンの香りが並び、故郷の米や魚は手に入らない。料理の腕を磨こうとしたが、食卓に並ぶのは見知らぬ味ばかりだった。食べながら「これは本当に私の未来の食事なのか」と不安になった。


 冬。街はクリスマスマーケットで輝き、ドイツ人学生たちは家族の元へ帰省した。寄宿舎に残ったのは数人の難民学生だけ。広場のイルミネーションを見上げながら、瑋婷は思った。

 「みんなは帰る場所がある。私は?」


 春、語学試験に合格し、正式に大学入学の許可を得た。教授や同級生は祝福してくれたが、喜びは半分だった。台湾から届いたメールには「両親の消息は不明」とだけ書かれていた。画面を閉じると、心の底に冷たい穴が空いた。


 それでも、瑋婷は前に進むしかなかった。図書館で分厚い教科書を開き、夜遅くまで数式と格闘した。ペンを握る指は震えたが、その震えは不安だけでなく「ここで生き抜く」という決意の表れでもあった。


 ある夜、同じく難民の友人たちと小さなパーティーを開いた。音楽と笑い声に包まれた瞬間、彼女は初めて「ここにも私の居場所がある」と感じた。だが同時に、心の奥で声が囁いた。――それは仮の居場所にすぎない。


 ――記憶はそこで途切れる。残ったのは、教室の黒板に映る数式、クリスマスマーケットの光、そして「私は誰の国の人間なのか」という答えのない問いだった。


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