第100章 台中の高齢夫婦・林志強と李淑華(避難先:カナダ)
――映像のように切り替わる。厚いコートを羽織り、バス停のベンチに腰掛ける二人の姿があった。林志強七十三歳、妻の李淑華六十九歳。二人は台中郊外で一生を過ごし、老後は孫たちの成長を見守るつもりだった。しかし中国の侵攻で家は破壊され、彼らは避難民としてカナダ西岸に渡った。
初めて降り立った空港で、志強は深い吐息をもらした。目に映るのは整然とした入国管理の列、案内板に並ぶ英語とフランス語。係員が笑顔で手続きをしてくれたが、言葉がほとんど聞き取れない。妻が「私たちはここで生きていけるの?」と囁いたとき、志強は答えられなかった。
数週間後、彼らは郊外の集合住宅に入居した。NPOが家具を揃え、近隣住民も食料を分けてくれた。だが、彼らの最大の関心は健康だった。志強は糖尿病を患っており、毎日の薬が欠かせない。カナダの公的医療制度は世界的に知られているが、難民としての初期アクセスは複雑だった。
最初の診察を受けるまでに二か月待たされた。薬の残りは一か月もたなかったため、彼は通訳ボランティアと共に慈善クリニックを探し回った。無料でインスリンを受け取れたが、その日の夜、彼は「人の施しで命を繋いでいる」と自らを恥じ、涙を流した。
妻の淑華もまた、持病の関節炎が悪化していた。台中では馴染みの鍼灸院に通い、友人たちと世間話をしながら支えてもらっていた。しかしここでは痛みを訴えても、「整形外科の予約は半年待ちです」と返されるばかり。雪の降る道を歩くたびに膝が軋み、彼女は「祖国に戻りたい」と口にするようになった。
言葉の壁は日常のあらゆる場面に立ちはだかった。スーパーでは商品のラベルが読めない。銀行では署名の仕方すら戸惑った。ある日、近所のカナダ人が親切に声をかけてくれたが、二人は笑顔で頷くだけしかできなかった。帰宅後、淑華は「笑うしかない私たちは子どもみたいだ」と言って泣いた。
時折、台湾に残る親族とビデオ通話をした。孫の顔を見ると胸が熱くなる。しかし、通信が途切れると急に静寂が訪れ、二人は互いの存在だけを見つめた。志強は「私たちの記憶も、ここでは誰の役にも立たない」と呟いた。
春、自治体が開いた健康チェックに参加した。医師は「あなたの血糖値は高い。食事に気をつけて」と言ったが、通訳を通した説明は味気なく、志強は細部を理解できなかった。診察後に配られたパンフレットはすべて英語で、夫婦はため息をついた。
そんな中、近隣の中国系コミュニティが支援を申し出てくれた。中国語で話せる相手がいるだけで、二人の顔は明るくなった。しかし同時に、彼らは微妙な葛藤を抱いた。侵攻で祖国を失った台湾人として、中国人の厚意に頼ることへの複雑な感情があったからだ。
夏、自治体から「社会保障番号(SIN)」が発行され、医療・年金へのアクセスが改善した。生活は少し安定したが、夫婦の胸の奥には孤独が巣食い続けた。夜、窓から眺める広大な空は美しいが、その静けさは台中の市場の喧騒とは正反対だった。
ある晩、志強は妻に言った。
「私たちはここで生きる。だが私たちの心は、あの台中の家に置いてきたままだ」
淑華は黙って頷き、震える手を夫の手に重ねた。
――記憶の残滓はそこまでだった。残されたのは、病院の長い待合室の空気、雪道を歩く痛み、そして祖国に帰りたいという消えない願いだった。