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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン15
1942/2259

第99章  花蓮の母子家庭・陳美芳(避難先:スウェーデン)




 ――視界が切り替わる。北欧特有の薄青い空、木造アパートの廊下に漂う洗剤の匂い。これは陳美芳の記憶だ。


 夫を早くに亡くし、花蓮で小さな食堂を営んでいた彼女は、二人の子どもを連れて台湾を脱出した。行き先はスウェーデン。難民受け入れに積極的だと聞き、彼女は“ここなら安心して子どもを育てられる”と信じていた。


 到着して最初の数週間、彼女は国の住宅支援で与えられたアパートに入居した。家具は最低限だが清潔で、暖房も効いていた。支援金も毎月振り込まれる。配給所で列に並ぶ必要もない。

 「こんなに整っているなんて」

 最初の夜、彼女は涙を流した。


 しかし、時間が経つにつれ、生活の綻びが見えてきた。最も深刻だったのは、保育所の不足だった。子どもを預けなければ働きに出られない。役所に相談しても「待機リストは半年から一年」と告げられるばかりだ。


 美芳は清掃のパートを見つけたが、シフトは早朝。子どもを置いて行くわけにはいかず、結局辞退せざるを得なかった。支援金だけで生活はできるが、働けないことで肩身が狭くなった。隣人は優しく声をかけてくれるが、時折「あなたたちは国から援助されすぎている」という噂が耳に入る。


 昼、子どもたちは近所の公園で遊ぶ。現地の子どもたちに混じり、片言のスウェーデン語で声を張り上げる息子を見て、美芳は少し安堵した。だが、娘は母の背中に隠れたまま遊びに加わろうとしない。

 「ママ、わたしの声、みんなに通じない」

 その言葉は、美芳自身の心の奥を突いていた。役所でも病院でも、言葉が壁となり、彼女は常に“説明される側”に立たされていた。


 ある夜、避難民シェルターにいた知人が彼女を訪ねてきた。

 「スウェーデンはいい国だ。でも働けない母親は精神的に追い詰められる。気をつけて」

 その言葉は冗談のように響いたが、心に沈殿した。


 冬、日照が短くなり、午後三時には暗闇が訪れる。子どもたちを寝かしつけた後、美芳は小さなテーブルで台湾から持ってきた料理本を開いた。写真に写る魯肉飯や芋頭粥の色合いは懐かしいが、材料は揃わない。代わりに現地のジャガイモやビーツで代用した。香りは似ても似つかず、子どもたちは「これ何?」と笑った。

 その笑い声に救われながらも、美芳は自分が“母としての記憶”まで失っていくように感じた。


 ある夜、アパートの階段で騒ぎがあった。酒に酔った地元の若者が避難民の部屋を叩き、「税金泥棒」と叫んでいた。管理人が通報し、警察が来て事態は収束したが、美芳の手は震え続けた。子どもたちは布団の中で「もうここに住めないの?」と泣いた。彼女は「大丈夫」と言ったが、声は震えていた。


 春。役所から通知が届いた。上の子が保育所に入れることになった。喜びと同時に、不安も押し寄せた。初めての登園の日、息子は元気よく園庭に駆け込んだが、娘は母のコートを掴んで離さなかった。

 「ママも一緒にいて」

 先生が優しく声をかけたが、娘は泣きじゃくった。美芳は胸の奥が引き裂かれる思いで、無理に手を離した。


 仕事を再開できる可能性が開けた。求人票を探しながら、彼女は未来を思い描いた。だが同時に、支援金の減額通知も届いた。「就労可能と判断された場合、給付は縮小されます」とあった。

 ――支援と自立。その狭間で、彼女は再び揺れていた。


 夜。窓の外に長い黄昏が残る。美芳は子どもたちを抱き寄せ、囁いた。

 「大丈夫、ここで生きていける」

 その声は自分に向けた祈りでもあった。


 ――記憶はそこで途切れる。残ったのは、階段に響いた怒号と、魯肉飯の香りを思い出す虚ろな舌の感覚、そして娘の「ママも一緒にいて」という泣き声だった。


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