第98章 新竹のIT技術者・張偉翔(避難先:ドイツ)
――視界が点滅する。コードエディタの黒い画面、緑色に浮かぶ文字列。これは張偉翔の記憶だ。
台湾・新竹のIT企業でソフトウェアエンジニアとして働いていた彼は、台湾侵攻の混乱で仕事も住居も失った。避難先に選ばれたのはドイツ。ヨーロッパ有数のIT人材需要の地と聞き、希望を抱いていた。だが、現実は違った。
到着してすぐ、就労斡旋所で面接を受けた。履歴書を提示すると、担当者は「優秀な経歴ですね」と言った。しかし次の瞬間、「ただし、こちらで働くには資格審査と追加研修が必要です」と付け加えた。彼の持つ修士号や職務経歴は、ドイツの制度では“参考”に過ぎない。
最初に得られたのは小さなスタートアップでの短期契約だった。給与は現地相場の半分以下。仕事は雑多で、サーバーメンテナンスからテスターまで任された。オフィスには最新のマシンが並んでいたが、彼に割り当てられたのは古いノートPC。デプロイが失敗すると、同僚が小声で「やっぱり難民は即戦力じゃない」と囁くのが聞こえた。
偉翔は悔しさを押し殺し、夜には無料のオンライン講座を受講した。ドイツ語の技術用語に慣れるためだ。
「Speicherverwaltung(メモリ管理)」「Datenbankabfrage」
舌がもつれるたび、自分のキャリアが一から削り取られるような感覚に襲われた。
ある日、同僚からSlackで指示が飛んだ。
「このバグ修正、明日までに」
コードを追っていくと、原因はアルゴリズムの基本的な誤りだった。偉翔はすぐ修正パッチを書き、テストを通した。だがレビューでは、リーダーがこう書き込んだ。
「よくやった。ただ、次は報告前に必ず私に確認して」
成果は“上司の功績”としてまとめられた。
給料日は静かに過ぎた。銀行口座に振り込まれた額は、家賃と生活費を差し引けばほとんど残らない。妻と幼い娘と三人で借りたアパートの冷蔵庫は、週末には空に近かった。スーパーで値引きシールの貼られたパンを選び、レジでカードが通るか不安になる。
夜。娘が眠った後、偉翔はキッチンの小さな机でノートPCを開いた。画面には、かつて新竹のオフィスで書き溜めたプログラムの断片が残っている。自動翻訳アプリの原型。台湾の同僚と深夜に議論しながら改良したものだ。コードのコメントには、仲間たちの冗談や絵文字が並んでいる。
彼は画面を見つめながら思った。“なぜ、ここではただの安い労働力に過ぎないのか”。
秋、ドイツ政府が主催する「再スキル研修」プログラムへの案内が届いた。参加すれば滞在許可が延長される。彼は迷わず応募した。だが研修内容は、すでに知っている基礎的なPythonやSQL。講師は若い大学院生で、偉翔が質問すると逆に答えに詰まることさえあった。
「本当に、俺はここで学び直す必要があるのか」
虚無感が胸を満たしたが、出席し続けた。修了証がなければ次の雇用に進めないのだから。
研修で知り合ったウクライナ人エンジニアと話す機会があった。彼も大企業で働いていたが、いまは倉庫で週末バイトをしているという。
「俺たちは皆、肩書きを失ったプログラマーさ」
二人は笑った。笑うしかなかった。
冬のある夜、偉翔は娘の寝顔を見つめた。ベッドの脇には、保育園で描いた絵が貼られている。大きな四角の中に小さな家族の三人。上には丸い太陽。
「ここで育つ娘に、俺はどんな未来を渡せるのだろう」
その問いは答えを持たず、ただ冷たい天井に吸い込まれていった。
――記憶はそこで暗転する。残ったのは、古いノートPCのファンの音、研修教室の白い蛍光灯、そして空の冷蔵庫の中に転がる硬いパンの映像だった。