表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン15
1939/2187

第96章 台中の農民・陳国良(避難先:ルーマニア)



 ――視界がざらつく。土の匂い、乾いた靴底の感触。畑の畝を歩く足取りが、そのまま記憶に変換されていく。これは陳国良の眼だ。


 彼は台湾中部・台中の山裾で小さな農地を耕していた。米、落花生、季節の野菜。戦火が迫り、家族と共に船で西へ、西へと逃れた。行き着いた先はルーマニア北部の農村に設けられたキャンプだった。


 キャンプといっても、ただの廃校を改装しただけだ。体育館に簡易ベッドが並び、廊下の突き当たりに仮設の炊事場。食糧配給はUNHCRと地元NGOが担っている。最初の頃、彼は“ただ待つ側”の難民であることに耐えがたかった。自分の手は働くためにあるはずだ。


 ある日、配給所で「農業ボランティアを募集中」という掲示が出た。地元農家が人手不足で困っている、と。国良は迷わず名を記した。翌週にはキャンプの仲間数人と一緒に近郊の畑へ送られた。


 畑には小麦が波のように揺れていた。耕運機の音が響き、農家の老人が彼らを迎えた。言葉は通じにくいが、鍬と鎌の使い方は共通だ。土を返す角度、苗を植える深さ――体が覚えている技術が次々と役立った。老人はしばらく彼を観察した後、黙って親指を立てた。


 夕暮れ、配給よりずっと温かいパンとスープを差し出された。国良は涙を堪えながら口にした。自分が再び“役に立っている”と感じたのは久しぶりだった。


 しかし、農作業の日々にも影があった。報酬はほとんどなく、ボランティアという名目で燃料代のような手当しか出ない。キャンプに戻れば「働いても報われないのに、なぜ行くのか」と仲間から責められた。

 「食べ物はどうせ支給されるだろう。お前が動いても変わらない」

 だが、国良には違って見えた。支給された食糧を“ただ受け取るだけの存在”では、自分の誇りは潰れてしまう。


 秋。畑の収穫期を迎えた頃、国良は地元の農家から「君がいなければ人手が足りなかった」と礼を言われた。袋に詰められたトウモロコシを渡され、キャンプへ持ち帰った。体育館の片隅で煮込んだ黄色い粥は、仲間たちの胃を温めた。

 しかし、喜びは長く続かなかった。キャンプの規則で「持ち込み食材は禁止」と告げられ、職員に取り上げられてしまったのだ。衛生管理が理由だと説明されたが、国良は怒りと虚しさで唇を噛んだ。自分の汗が、規則の前で簡単に無効化された。


 夜、体育館のベッドに横たわりながら、彼は暗闇に向かって呟いた。

 「俺は、難民か。それとも農民か」

 答えはどこにもなかった。


 冬。キャンプの周囲に雪が降り積もる。農業ボランティアも休止になり、再び“待つ生活”に戻った。暖房は不十分で、毛布の下で体を寄せ合う。娘が風邪をひき、妻は薬を求めて町へ出たが、通訳がなく購入できなかった。薬局で「処方箋」と言われても、台湾の処方箋など手元にあるはずがない。


 春。再び畑に呼ばれた。雪解けの土は重く、鍬が跳ね返る。国良は息を切らしながらも土を掘り起こした。背後から農家の老人が差し出したのは、一枚の紙だった。そこには〈契約農業労働者〉と書かれていた。簡易なビザ延長の制度で、季節労働者として扱うという。


 「難民」から「労働者」へ――その一枚の紙が、彼の肩書きを変えた。


 しかし賃金は安く、保証も弱い。農家は彼を信頼しているようでいて、税や社会保障の負担を避けるために契約を曖昧にした。国良は気づいていた。

 “利用されている。でも、利用されないよりはましだ”


 夜。キャンプに戻ると、仲間の一人が言った。

 「今日、配給が半分に減った」

 国良はスープをかき混ぜながら、鍬を握る手を思い出した。自分はまだ畑で働ける。だが、この先どれだけ“農民”としての自分を守れるのか、見えなかった。


 ――視界はそこで途切れる。残ったのは、土の湿った匂いと、契約書の紙のざらつき、そして「俺は難民か、それとも農民か」という自問の響きだけだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ