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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン15
1938/2233

第95章 高雄の看護師・蔡秀蓮(避難先:ドイツ)



 ――視界が切り替わる。消毒液の匂いに、コーヒーの焦げた匂いが薄く重なる。深夜二時、ドイツ西部の地方病院・内科病棟。これは、彼女――蔡秀蓮の記憶だ。


 渡独から三か月。彼女はまだ“看護師”とは呼ばれていない。名札には〈Pflegehelferin(介護助手)〉。十年以上の臨床経験は、紙と手続きが認めるまで棚上げにされる。資格承認(Anerkennung)のために語学学校と実習に通い、昼は講義、夜は病棟で時給の夜勤。睡眠は細切れになり、体温はいつも少し低い。


 ナースステーションの電子ベルが鳴る。病室7号からの呼び出し。彼女はカートを押し、ドアをノックする。

 「Guten Abend, ich komme gleich(こんばんは、すぐ伺います)」

 ベッドでは老女が咳き込み、酸素マスクが頬に跡を残していた。老女は彼女の顔を見て、言った。

 「どこから来たの?」

 「台湾です」

 「タイかい?」

 「いえ、台湾です」

 言葉の端に小さな棘が刺さる。悪意ではない、と頭ではわかっている。だが、毎晩のように繰り返される「どこから来たの?」は、彼女の存在に常に“余所者”のラベルを貼る。


 配膳ワゴンの前で、同僚の看護師が冗談めかして言う。

 「あなたたち、手先が器用で我慢強いから助かるわ。患者も“アジア人は優しい”って」

 笑い声。彼女も笑う。反射で。

 “優しい”は褒め言葉に見えるが、ときに免罪符になる。無限の我慢と、終わりのない夜勤を押し付けるための。


 午前三時、インスリンのダブルチェック。ドイツ語で薬剤名を読み上げ、同僚が復唱する。彼女は母語で唱える癖を内心で抑える。言い間違えれば事故、事故は“外国人のミス”として話題になる。

 コールが重なり、廊下に患者の呻き声が重層的に流れる。吸引、体位変換、尿瓶交換。背中の筋肉が張り、指先が痺れる。


 休憩室の時計は四時を回った。紙コップのコーヒーにミルクを注ぐ。壁の掲示板には〈外国人医療職向けドイツ語講座B2〉のチラシ。彼女は明朝の授業の宿題を思い出し、膝の上で語彙カードをめくる。

 「Angehörige(家族)」「Überleitung(引継ぎ)」「Selbstbestimmung(自己決定)」

 台湾でも使ってきた言葉なのに、発音記号を舌でなぞるだけで疲れる。


 月末の早朝、役所の窓口で資格承認の追加書類を求められた。台湾の養成校のカリキュラム時間数、予防接種歴、実習評価の原本。戦時に紛れて手元にない。病院の人事担当は言った。

 「書類が揃えば昇給もあるし、看護行為の範囲も広がる。頑張って」

 頑張って。最も軽く、最も重い言葉。


 ある夜、7号室の老女が急変した。心電図が乱れ、呼吸は浅い。彼女はベルを押しながら酸素濃度を上げ、同僚に指示を飛ばす。

 「吸引準備、ドクター呼んで。家族へ連絡、今すぐ」

 医師が到着し、胸骨圧迫が始まる。骨の折れる感触が掌を抜ける。時間は伸び縮みし、サイレンのように単語が脳内を回る。

 “本来なら私はもっとできる。挿管、薬剤選択、家族説明――”

 しかし法的には介助者だ。越権はできない。

 数分後、心拍は戻り、病室は静けさを取り戻した。彼女は壁にもたれ、深く息を吐いた。

 同僚が肩を叩く。「グッドジョブ。あなた、ほんと優秀ね」

 “優秀”。名札には、まだ助手。


 夜勤明け、アパートに戻ると、台所で夫が弁当を詰めていた。彼も倉庫で夜勤を続けている。寝室では幼い息子が幼稚園の支度をしており、上着のファスナーがうまく噛み合わない。

 「ママ、これ、むずかしい」

 彼女は膝をつき、ゆっくりファスナーを上げた。指先が震えているのに気づき、笑ってごまかした。

 語学学校の授業料の請求書、家賃の引落し通知、電気代の値上げ。冷蔵庫の扉に磁石で貼られた紙が増えるたび、胸が浅くなる。


 日曜、教会の地下ホールで移民支援団体が無料の相談会を開いた。彼女は順番を待ち、職員に尋ねた。

「資格承認の仮の評価でも、夜勤の配置や賃金を改善できませんか」

 「病院との個別交渉になります。人手不足だから、交渉の余地はあるはず」

 「差別的な発言が続くのですが、記録に残すべきでしょうか」

 「日付・場所・発言をメモに。溜まれば提出できます」

 彼女は頷き、ノートを開いた。夜勤の合間に記した走り書きが並ぶ。〈“アジア人”だから我慢できるだろ〉〈暗黙の残業〉〈患者家族から“どこの人?”〉。インクがにじんで読めない箇所もある。涙の跡か、汗の跡か、自分でもわからない。


 春。桜に似た薄紅色の街路樹が咲いた朝、資格承認の一次合格通知が届いた。口腔内で発音を確かめる。「A-ネアケンヌング」。彼女は笑い、すぐに泣いた。

 夜、病棟では相変わらずベルが鳴り、カートの車輪が軋む。変わらない音の中に、少しだけ違う響きが混ざる。

 引継ぎの席で、主任が言った。

 「来月から、あなた一部の処置は単独でできるわ。語学も上がってきた」

 彼女は礼を述べ、部屋を出た。廊下の窓から外を見る。夜明け前の空は薄く青く、遠くで風車が回っている。


 帰路、パン屋で余り物の袋を受け取る。移民家庭へ配られる善意のパンは少し硬い。だが、スープに浸せば子どもはよく食べる。

 アパートの階段を上がると、ポストに一通の手紙。台湾の友人からだった。封を切ると、短い便り。〈あなたの手の中に、あの病棟の朝がまだありますように〉

 彼女はキッチンの椅子に腰を下ろし、手紙を胸に当てた。自分の手を見つめる。ガーゼの跡は薄くなったが、掌の真ん中に小さな固い皮膚が残る。夜勤で押し当てたカートのバーの跡だ。


 ――視界がゆっくり暗転する。記憶再生はここで途切れた。残ったのは、早朝の薄い青、硬いパンの噛みしめる音、そして名札の裏側に折りたたまれた合格通知の紙の手触りだった。


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