第93章 記憶の干渉帯
地下深くの部屋は、湿り気を帯びた空調の唸りと、低く震える電源音に支配されていた。
ここは大阪臨時政府庁舎の一角に設けられた〈記録局〉――国を喪った民の声と映像、そして“失われた人々の記憶”を収集・保存する場所である。
記録官の私は、冷たい鉄机の上に並ぶ封筒をひとつずつ撫でた。封筒の紙は海水で歪み、角は焼け焦げている。それは単なる証言資料ではなかった。相模原トラフを震源とする地殻異常が観測されて以来、世界の科学者たちはある現象を確認していた――過去の実在人物の記憶が、生者に接続される。
それは「追体験」と呼ぶには生々しすぎ、「幻覚」とするには一致しすぎていた。
最初に現れたのは兵士の視界だった。すでに死んだはずの祖父の手の震えや、耳奥を打つ爆風の残響を、現代の若者が自らの体験として語った。次に現れたのは市井の母親の声だった。焦げたパンの匂い、避難所で眠る幼子の重さ。それは記録映像には残っていない“体感”であり、しかし別人同士が同じ場面を語る。
科学者は「Ω干渉」と呼び、宗教者は「魂の回帰」と呼んだ。私たち記録官にとっては、ただひとつの手段――戦争で奪われた日常をもう一度なぞるための道具にすぎなかった。
机上の封筒には四つの印が押されている。
一、〈台湾〉
高雄の看護師、蔡秀蓮。暗闇の病棟で、患者の瞳から光が消える瞬間を見た。
台中の主婦、林雪華。配給の米袋を抱えて走った通りの砂塵をまだ咳き込む。
台北の銀行員、鄭志宏。最後に入力したドル両替の画面を、彼はいまも夢に見る。
二、〈朝鮮半島〉
ソウルの大学生、金秀賢。講義室から地下駐車場へ駆け込む瞬間の湿った空気。
釜山の造船工、李鎮浩。桟橋で聞いた母親の悲鳴。
中国国境の少年、ユジン。登録から外れた“名簿の隙間”に落ちていった夜。
三、〈北海道〉
旭川の教師、田村和正。占領軍の検問で、生徒の名を一人ずつ呼ばされた朝。
主婦の佐伯彩子。自宅の窓から見えた戦車の影。
四、〈東京〉
官僚、木下健司。省庁が焼け落ち、同僚の名札だけが手元に残った夕暮れ。
母子、佐伯涼子。避難所で幼子の体温を失った瞬間の空白。
これらはすべて“記憶接続”によって保存された断片である。記録官は端末に触れ、他人の視界を自らの眼として追体験する。その行為は倫理的に危うい。だが、この国を喪った人々の物語を未来に手渡すためには、どうしても必要なのだ。
赤いランプが点滅した。〈再生準備完了〉と表示される。
私は深呼吸し、端末に接続した。視界が暗転し、やがてざわめきと湿った熱気が押し寄せてくる。
――午前八時、台北市。
地下鉄の出口を上がる男がいる。白いシャツの襟を正し、銀行のビルを見上げる。
名は、鄭志宏。
次に再生される記憶は、彼のものだ。
都市がまだ“戦場になる前”の、最後の平穏の朝の記録である。