第88章 人間は追いつけるか?
新寺子屋の朝。生徒たちは前日の授業で受け取った分厚いAI数学の資料をまだ机の上に置いたまま、ため息を漏らしていた。
ユイはノートを開きながら呟いた。
「……やっぱり、理解できない数式は怖い。正しいって言われても、納得できないよ。」
ケンも頷く。
「“正しいけど分からない”なんて、数学じゃない気がする。でも先生は“未来の数学”だって言ってましたよね。」
そこへ先生が入ってきた。黒板に二つの言葉を書き出した。
「直感」
「形式」
「今日は“人間はAI数学に追いつけるか”を考える。鍵となるのは、この二つだ。」
直感と形式のギャップ
先生は続けた。
「人間は数や図形を“直感的に理解する”ことを重視する。三角形の合同も、円の対称性も、見れば“なるほど”と思える。数学は文化や言語と結びつき、共有できる“直感”を基盤にしてきた。」
ユイが手を挙げる。
「だからこそ、美しい証明に価値があるんですね。」
「そうだ。しかしAIは違う。AIにとって大事なのは形式と正確さ。直感的に理解できるかどうかは関係ない。だから数千ページの証明でも“正しい”なら価値がある。ここに深いギャップがある。」
教育の挑戦 ― 翻訳する数学
先生は黒板に「通訳者としての数学者」と書いた。
「人間が追いつくには、AIの形式を“直感に翻訳する”役割が必要になる。つまり数学者は、AIが導いた結果を人間が理解できる形に変える“通訳者”にならなければならない。」
ケンが疑問を投げかける。
「でも、もしAIの証明が何千ページもあるなら、人間が翻訳するのは不可能じゃないですか?」
「すべてを翻訳するのは難しい。だからこそ教育の課題は“理解のためのモデル”を作ることだ。AIが見つけた結論を、直感的な図や比喩に置き換えて人間に伝える。それが追いつくための新しい学びだ。」
体験課題 ― 翻訳の試み
先生は黒板にAIが導いた結論の一例を書いた。

「AIはこの性質を持つ関数を発見した。だが“なぜか”は説明してくれない。君たちで意味を考えてみよう。」
生徒たちは小グループに分かれて議論を始めた。
•ユイのグループは「素数の規則性に関係しているのでは?」と推測。
•ケンのグループは「多項式の性質から無限に続く」と直感で説明しようとした。
•別のグループは「図にすると周期的なパターンに見える」と提案。
やがて各グループが発表したが、どれも完全な説明にはならない。
先生は笑みを浮かべた。
「いいんだ。大事なのは、AIが出した“形式的事実”に対して、人間が直感的な物語を与えようとする試みだ。これが翻訳であり、人間が追いつくための第一歩だ。」
生徒の気づき
議論のあと、ユイが小さく呟いた。
「私たちはAIに全部任せるんじゃなくて、“理解できる形”に変えないと、数学は文化として残らないんですね。」
ケンも深くうなずいた。
「数学を人間の言葉に翻訳する作業は、AIにはできない。そこが僕らの役割なんだ。」
結び
先生は黒板に大きく書いた。
•AI → 形式
•人間 → 意味
•未来の数学者 → 翻訳者
「人間はAIに追いつけるか? それは可能だ。ただし“追いつく”とは同じ道を走ることではない。AIが示す結果を、人間が文化として理解できる形に翻訳する――その営みこそが未来の数学教育の使命だ。」
窓の外には朝日が差し込み、生徒たちはそれぞれのノートに「翻訳者としての数学者」と書き込んだ。
彼らの目に、不安だけでなく確かな希望の光が宿っていた。