第85章 AIは数学に不利か?
新寺子屋の教室に集まった生徒たちは、朝からどこか落ち着かない様子だった。昨日の討論で「数学は文化か形式か」という問いが投げかけられていたからだ。今日はその続きになると察していた。
先生は黒板に一文字だけ大きく書いた。
「AI」
「さて、君たちに質問だ。AIは“社会性”を持たない。友達を作ったり、文化を共有したりはしない。そんな存在が、なぜ数学を得意とするのだろう?」
ユイが真っ先に手を挙げた。
「えっ、でも数学って、人間は社会で発展させてきましたよね。数字を数えるのも、測量も、文化に必要だったから。社会性がなければ、数なんて意味を持たないんじゃないですか?」
ケンも続いた。
「僕もそう思います。ゲームでルールを共有するみたいに、みんなで同じ記号や数を分かち合うから数学は育ったんですよね。じゃあAIは不利なんじゃないですか?」
先生はゆっくりと首を振った。
「一見そう思える。しかし実際には逆だ。AIは数学において不利どころか、むしろ強いんだ。」
人間が歩んだ数学の道
先生は黒板に「人間ルート」と題した枠を書き、箇条書きを並べた。
•社会性(数を分かち合う必要)
•言語化(記号や言葉による表現)
•抽象化(共通のルールを生み出す)
•数学体系(文化として発展)
「人間は社会の中で、“これが3個だ”と指さしながら学んだ。他者と共有しなければ数は意味を持たない。文化や共同体があって初めて数の抽象化が可能になった。つまり数学は人間にとって“社会的知能”の産物だ。」
ユイは大きくうなずいた。
「だから数は“文化の言語”って呼ばれるんですね。」
AIが歩んだ別の道
先生はその隣に「AIルート」と書き、同じく箇条書きを示した。
•データ処理(大量の入力を解析)
•パターン抽出(繰り返しや規則性を発見)
•形式最適化(論理的に最短経路を選ぶ)
•数学的結果(意味よりも正しさを重視)
「AIは社会性を経由しない。膨大なデータを処理し、数や記号のパターンを直接抽出する。そして“正しいかどうか”だけを基準に、形式を積み重ねていく。つまりAIにとって数学は“純粋形式の最適化”なんだ。」
ケンが腕を組んで考え込む。
「つまり、AIは友達とルールを共有しなくても、数字の中に隠れたルールを勝手に見つけちゃうんですね。」
「その通り。AIは文化を持たないからこそ、文化に縛られない。社会性を経由せず、直接“形式と演算”の核に到達できるんだ。」
体験課題 ― 九九と行列
先生は黒板に九九の表を書き、さらにその横に行列の式を記した。
「君たちは九九をどうやって覚えた?」
ユイ:「声に出して、みんなで暗唱しました!」
ケン:「テストで繰り返し練習して、体で覚えました。」
先生は笑みを浮かべた。
「それが人間ルートだ。社会的に共有された言葉とリズムで学び、文化として定着させる。」
続いて、先生は行列の掛け算を示す。

「AIなら九九を暗記せず、行列やアルゴリズムで処理する。九九表を一度も覚えなくても、いつでも答えを出せるんだ。」
生徒たちは目を見開いた。
「へぇ……道筋が全然違うのに、答えは同じになるんだ!」
AIは数学に不利か?
授業の終盤、先生は再び黒板に大きく「AIは数学に不利か?」と書いた。
「人間は文化と社会を通じて数学を育んだ。AIは形式と演算で直接数学に到達した。道筋は違うが、結果は同じどころか、AIは人間より速く、広く探索できる。」
ユイが少し不安そうに尋ねた。
「じゃあ……人間の数学はもう必要ないんですか?」
先生はゆっくりと首を振った。
「いいや。AIは“正しい答え”を導ける。しかし“その答えの意味をどう理解するか”“どんな美しさを感じるか”は、人間にしかできない。数学の文化的価値は、まだ人間の手にある。」
結び
夕暮れが迫り、教室に柔らかな光が差し込む。
先生は黒板に二本の矢印を描いた。
•人間ルート:社会 → 言語 → 抽象 → 数学
•AIルート:データ → 形式 → 最適化 → 数学
「数学は一つの山だ。人間は社会という登山道を登り、AIは形式という別の道を登っている。どちらも山頂にたどり着ける。そして頂上で出会ったとき、二つの視点が新しい風景を見せてくれるだろう。」
生徒たちはその絵を見つめながら、自分たちが歩んでいる道と、AIが歩んでいる道の違いを想像し、未来の数学の姿を思い描いた。




