第83章 孤独な高知能 ― タコ
新寺子屋の教室に、先生は一冊の図鑑を持ち込んだ。ページを開くと、そこには岩陰から伸びる長い八本足の写真が大きく載っていた。
「今日は“タコ”について学ぶ。彼らは驚くべき高知能を持つ動物だ。迷路を解き、瓶のフタを開け、色や模様で周囲に適応する。中には人間の顔を覚えて区別できるタコもいる。」
生徒たちから驚きの声が漏れる。
「えっ、タコってそんなに賢いんですか?」
「そう、タコは脳の神経細胞が分散していて、脚ごとに“半独立した頭脳”を持つ。だから物理的な問題解決は得意だ。まさに“科学的知能”の達人だな。」
タコの知能の実例
先生は黒板に「科学的知能」と書き、箇条書きした。
•迷路学習
•道具の使用(ヤドカリの貝殻を盾にするなど)
•瓶のフタを回して開ける
•模様を使った擬態・欺瞞
「これらはすべて観察と因果関係の理解に基づいている。まさに“理系的な知能”だ。」
ユイが興味深そうに尋ねた。
「じゃあ、タコは数を数えられるんですか?」
タコと数概念の限界
先生は首を振った。
「そこが面白いところだ。タコは“どちらの箱に餌があるか”を見分けることはできるが、“3対4の数の違い”を安定して理解できるわけではない。せいぜい“少ない・多い”を直感で判断できる程度だ。」
ケンが驚いたように言った。
「アリやミツバチでも“数”を使えるのに……?」
「そう、不思議だろう? タコの知能は高いのに、社会性がほとんどない。一匹で生き、一匹で狩り、一匹で死ぬ。仲間と数を共有する必要がないから、数概念は発達しなかったんだ。」
教室での比喩実験
先生は生徒たちに課題を出した。
「二人組でゲームをしよう。ユイは“3つの豆”をケンに渡す。ケンは“確かに3つある”と答えることができる。しかしもし君たちが孤独に暮らしていたら、その“3”を誰に伝える必要がある?」
生徒たちは黙り込み、やがて笑いが広がった。
「確かに、ひとりなら数えなくてもいい!」
「そうだ。タコは自分の知能で十分生き延びられる。だから数は発達しなかった。これは“社会性と数”の強い関係を示しているんだ。」
科学知能と数学知能
先生は黒板に二つの円を描き、片方に「科学的知能」、もう片方に「数学的知能」と書いた。
「タコは科学的知能において突出している。因果関係を理解し、複雑な環境に適応する。しかし数学的知能――つまり数を記号化し、共有し、抽象的に扱う力は弱い。」
ユイが真剣な声で尋ねた。
「じゃあ、もしタコが群れで暮らしていたら?」
「面白い仮説だな。もし社会性を持っていたら、仲間の数や獲物の分配を数える必要が生まれただろう。そうすれば数概念は進化していたかもしれない。だが実際には孤独な生き方を選んだ。だから“孤独な高知能”なんだ。」
結び
先生は最後にまとめを書いた。
•タコは高度な問題解決力を持つ(科学的知能)。
•だが社会性がないため、数概念は発達しなかった。
•数学的知能は、科学的知能+社会性によって育つ。
「タコは人間に似た“理系頭脳”を持ちながら、数学には至らなかった。だからこそ、私たちが“数学的知能”を手にした背景には、社会と文化が不可欠だったと分かるんだ。」
窓の外では、夕闇の中で波のように風が揺れ、どこか海の底の世界を思わせた。子どもたちはタコの孤独な姿を想像しながら、“数を生んだ社会”の意味を静かにかみしめていた。