第77章 アリの歩数計
新寺子屋の庭に、細い竹の棒で仕切られた砂の小道がつくられていた。生徒たちは不思議そうに外へ出て、砂の上に並ぶ赤い目印を見つめた。
「今日は特別授業だ。」先生はにっこりと笑い、足元の砂を指さした。
「テーマは“アリの数感覚”。君たちは、アリがどうやって巣から餌場までの距離を覚えているか知っているか?」
ケンが首をかしげる。
「匂いで道を覚えるんじゃないんですか?」
「匂いも使う。でも、もっと面白い仕組みがある。アリは自分の“歩数”を数えているんだ。」
先生は黒板に「歩数計仮説」と大きく書いた。
「研究者たちは、アリが歩いた歩数と歩幅で距離を推定していることを突き止めた。つまりアリは体の中に“歩数計”を持っているんだ。」
ユイが驚いた声を上げる。
「えっ、アリって頭が小さいのに数を数えられるんですか?」
「もちろん、人間のように“1、2、3”と数えているわけではない。脚の振動や神経信号をカウントしていると考えられている。証拠になる実験がある。」
先生は生徒たちを砂の小道に並ばせ、竹の棒を一本渡した。
「想像してみよう。ここをアリが歩くとする。実験では、アリの脚を“少し長くする”か“短くする”細工をしたんだ。」
生徒たちは息をのんで聞き入る。
「するとどうなったか――脚を長くされたアリは、歩幅が広がるから、巣を通り過ぎてしまった。逆に脚を短くされたアリは、途中で止まってしまった。」
「えーっ!」と子どもたちの声が一斉に上がる。
「そう。つまりアリは“歩数”を基準に距離を測っている。歩幅が変われば、数の感覚も狂ってしまうんだ。」
先生は生徒たちに実験を提案した。
「では、君たちもやってみよう。ここから十歩でこの線まで歩く。歩幅を意識せずに数えてみるんだ。」
子どもたちは砂の上を歩き、「いち、に、さん…」と声を合わせる。十歩で線に到達する子もいれば、オーバーする子もいる。
「では次に、わざと大股で歩いてみよう。」
結果はすぐに出た。大股で歩いた生徒は、十歩で線を越えてしまう。小股で歩いた子は届かない。
ユイが笑いながら叫んだ。
「本当だ! アリと同じだ!」
教室に戻ると、先生は黒板にまとめを書いた。
•アリは匂いだけでなく「歩数」を数える。
•脚を伸ばすと巣を通り過ぎ、縮めると手前で止まる。
•歩数と歩幅を掛け合わせて距離を測る。
「これは立派な“数の感覚”だ。ただし、アリが理解しているのは抽象的な“数字”ではない。身体のリズムを利用した自然なカウントだ。」
ケンが真剣な顔で尋ねた。
「じゃあ、アリは“数学”をやってるわけじゃないんですね?」
「その通り。アリは“科学的知能”を持っている。自分の身体を使って距離を測る――これは工学的で理系的な知能だ。でも“数詞”や“記号”がないから、人間のように数学にはならない。」
先生は黒板に二つの円を描き、片方に「科学的知能」、もう片方に「数学的知能」と書いた。そして重なる部分に「数感覚」と記した。
「アリの歩数計は、科学的知能の典型例だ。自然に適応するために進化した。でも人間は、そこからさらに“記号化”して抽象的な数学へと飛躍したんだ。」
最後に先生は生徒たちに豆を配った。
「今日の宿題だ。豆を並べ、歩数のように“何個あるか”を直感で数えてみなさい。そして、言葉で伝えてみよう。それがアリと人間の違いを考える第一歩になる。」
夕方の光が差し込む教室で、生徒たちは豆を手に取りながら、しばらく静かに考え込んでいた。