第73章 穿孔の朝 ― 着工と再始動
横浜港に夜が明けきる前、まだ湿った潮風の中で巨大な影がゆっくりと動いていた。全長八十メートルのトンネルボーリングマシン。鋼鉄の巨体を吊るクレーンの唸りが響き、見上げる労働者たちの顔には期待と不安が入り交じっている。カッターヘッドの直径は十二メートル。鋭い刃の列が光を反射して、不気味なほど冷たく輝いていた。
そのすぐ隣、仮設された防爆テントの中では着工式が始まろうとしていた。復興庁長官は緊張を隠さずマイクに立ち、声を張り上げる。
「本日をもって、東京地下要塞都市の建設を正式に着工する! このプロジェクトはただの都市再開発ではない。我々の未来を守る砦だ!」
拍手が場を満たす。だが、拍手の音に混じって労働者の間からは小さな溜め息が漏れていた。壇上で語られる希望は、彼らにとっては過酷な労働と隣り合わせの現実でしかなかった。
コンソーシアム代表が続けて壇上に立つ。「我々は最新鋭のTBMと安全基準を提供する。しかし実際にそれを動かすのは皆さんだ。誇りを持ってほしい」 言葉は立派だった。だがその裏で、矢代隆一中佐は冷静に見抜いていた。――コスト削減をめぐる交渉は昨日まで続き、現場に回される予算はぎりぎりだ。美辞麗句だけで安全は確保できない。
現場では式典などお構いなしに準備が進んでいた。整備員がカッターヘッドの歯を一本ずつ点検し、摩耗度を計測する。NATMによる先行掘削ではショットクリートが吹き付けられ、支保工が三メートル間隔で打ち込まれていく。爆薬は厳重に管理され、使用量と退避手順を監査団が目を光らせて確認していた。紙一枚の不備で資金が止まるのだから、彼らの目は鋭い。矢代はその様子を横目に思う。――紙の安全と現場の安全は別物だ。しかし紙がなければ金は出ない。ならば、どちらも守るしかない。
朝六時、労働者たちが地下入口に整列した。白いヘルメットは監督、青は掘削要員、緑は衛生班、赤は爆薬管理。色で役割が分かれる。組合代表が声を張った。「今日は記念の日だ。だが忘れるな。守るのは数字じゃない、仲間の命だ」 その言葉に応えるように誰かが小さく頷き、別の誰かは黙って手袋をはめ直した。
港の周辺ではPMCの車両が巡回していた。装甲SUVの荷台に据え付けられた機関銃は弾倉を抜かれていたが、抑止力としては十分だった。記者がひとり、PMC隊員に声をかけた。「本当に撃つことはないんですか?」 隊員は答えず、防弾ベストの胸を軽く叩いた。答えはそれで十分だった。
午前八時、最初の支保工が打設された。レーザー測定器が角度を計測し、誤差は二センチ以内。佐伯俊技官が図面を片手に目を光らせる。「ここで甘さを許せば数百メートル先で崩れるぞ」 現場は静まり返り、ハンマーの一打ちまでが緊張を伴った。
そして午前十時。TBMが唸りを上げ、ゆっくりと動き出す。巨大なカッターヘッドが岩盤に食い込み、地鳴りのような振動が地表まで伝わる。粉塵が舞い上がり、送風機が全力で回る。監督の声が響いた。「穿孔開始!」 作業員たちは一斉にヘルメットの庇を押さえ、振動に耐えた。
その瞬間、東京の地下に新しい歴史が刻まれた。だが矢代は知っていた。今日の穿孔はただの始まりに過ぎない。資金は脆弱で、政治の圧力は容赦なく、敵は必ず攻撃と情報戦を仕掛けてくるだろう。完成への道のりは、穿孔よりもはるかに険しい。地底で響く鋼鉄の唸りは未来の胎動だったが、それが生まれ落ちる保証は、まだどこにもなかった。