第70章 設計再編 ― コストと工期の再計算
東京地下要塞建設の図面は、赤い修正線で埋め尽くされつつあった。パイロット工区での掘削は、設計と現実の間に横たわる深い断層を露わにした。机上では「砂礫層の下は粘土基盤で安定」と記されていたが、実際は膨潤性の軟弱層が広がり、わずかな湧水で崩落を起こす危険がある。現場監督の宮内は、崩れた泥壁を前に「これでは従来の支保工設計は破綻する」と即断した。
再計算の始まり
翌朝、大阪臨時政府庁舎。壁一面の大型スクリーンには、施工フローチャートが赤字で埋め尽くされていた。
「遅延見込み:92日」「追加コスト:+1兆4,000億円」
数字が突きつける現実に、会議室の空気は鉛のように重かった。
宮内はヘルメットの跡が残る額を拭いながら報告する。
「支保工の間隔は設計値5mを維持できません。3m、場合によっては2.5mにまで狭める必要があります。その分、鋼材需要は当初計画の1.7倍。加えて排水処理能力を現行計画の二倍に引き上げなければなりません」
財務局長が青ざめて電卓を叩く。
「追加鋼材だけで6,000億円超。排水ポンプ増設でさらに1,800億円。これでは予算が破綻する」
技術案の三択
技術チームは三つの選択肢を提示した。
1.全面改修案
軟弱層全域を薬液注入+鋼管杭で補強。最も安全だが、工期半年延長、追加コスト1兆4,000億円。
2.限定改修案
主要ルートのみ補強、二次区画はリスクを残す。工期遅延は3か月以内、追加コスト8,000億円。だが避難時の信頼性に不安が残る。
3.設計転換案
危険区域を放棄し、ルートを大幅変更。延長+20%、将来維持費増。追加コスト1.1兆円。
国際監査団の代表は即答した。
「全面改修以外は承認できない。地下要塞は“核攻撃に耐える”設計でなければ支援資金の対象外だ」
矢代隆一中佐が机を叩いた。
「半年遅れれば、避難民をどこに収容する? 紙の安全を追って現実の命を捨てることになる」
数字と命のはざまで
佐伯俊技官は冷静に試算を示す。
「全面改修:+1.4兆円、半年遅延。限定改修:+8,000億円、遅延90日。設計転換:+1.1兆円、維持費増大」
会議は紛糾した。財務局長は「兆単位の国債発行は現実的でない」と声を荒げ、復興庁長官は「国際融資を追加交渉すべきだ」と主張。だが監査団は冷徹に告げた。
「条件を満たさなければ融資は凍結する。われわれは慈善事業ではない」
労働者の叫び
その頃、現場では労働者組合が抗議行動を起こしていた。粉塵にまみれた作業員たちが声を上げる。
「安全基準を下げて掘らせるなら、現場を止める!」
組合代表は会見で「地下要塞が墓標になってはならない」と訴え、国内メディアは「労働者切り捨て」と大きく報じた。SNSでは〈人命より工期優先か〉のハッシュタグが拡散。世論の圧力が政府を直撃した。
政治の介入
夜、首相代行が緊急指示を出す。
「全面改修は不可能だ。だが限定改修だけでは国際融資を失う。両者を組み合わせた妥協案を提示せよ」
矢代は重く頷いた。現場の安全と政治の要請、両方を満たすしか道はない。
ハイブリッド案
翌日、佐伯が提示した新設計はこうだった。
- 主要避難ルート、発射管区:全面補強。
- 二次区画:限定補強。将来改修用の導管と空間を確保。
- NATM機材を倍増、日進を2.8→3.5mへ加速。
「これなら工期遅延は最長90日。コストは+1兆500億円。国際監査には“段階的全面補強”と説明できます」
監査団は沈黙したのち、条件付き承認を下した。
「四半期ごとの進捗監査を義務付ける。逸脱があれば資金は即凍結」
結び
会議室に残ったのは修正された真新しい設計図。赤と青の線が交差し、現場の妥協と政治の圧力の痕跡を刻んでいた。矢代は図面を見つめ、低く呟いた。
「要塞は鉄でもコンクリートでもなく、人の決断でできていく。数字は嘘をつかないが、数字に命を委ねるわけにはいかない」
新しい設計は、国家の延命策であり、同時に新たな負債の始まりでもあった。