第69章 パイロット工区 ― 試験掘削と初期工事
東京地下要塞計画は、机上の設計からついに現場へと移行し始めていた。その最初の一歩が「パイロット工区」――試験的に数百メートル掘削し、換気、浸水、地質の安定度を実際に検証する先行工事だった。
掘削の開始
秋の早朝、工事監督の宮内はヘルメットを深く被り、工区入口に立った。NATM(新オーストリアトンネル工法)のショットクリート機が唸りを上げ、湿ったセメントが吹き付けられていく。背後では測量班がレーザースキャナで断面形状を測定し、許容誤差を確認していた。
「日進、平均は2.8メートルだな」
地質学者の香川がタブレットに目を落とす。設計上の期待値3.5メートルに届かない。掘削速度の遅れは、地下都市全体の完成時期に直結する。
地質ボーリングと初期知見
試掘に先立ち、複数箇所でボーリング調査が行われていた。報告書では「砂礫層を経て安定した粘土層に至る」と予測されていた。だが実際に掘り進めると、粘土層の一部は異常に軟弱で、掘削時に崩落を起こしやすいことが分かった。
香川は指で壁面を削り取り、小瓶に入れる。
「水を含んで再膨張する性質がある。膨潤性粘土だ。支保工の間隔を狭めないと危険だな」
宮内は深く息を吐いた。支保工=鋼アーチ支柱を通常5メートル間隔で設置する予定が、3メートル以下に縮める必要がある。資材コストは跳ね上がり、工期も伸びる。
換気と浸水試験
試験掘削の目的は地盤だけではない。換気と浸水の挙動も重要だ。工区の先端では巨大な送風機が回り、CO₂濃度と湿度の計測器が並ぶ。国際監査員が監視しながら数値を記録していた。
「換気効率は基準の85%。本線掘削時には二系統送風に切り替える必要がある」
報告に監査員が即座に赤印を入れる。
さらに地下水が問題だった。予想より強い湧水が発生し、1分間に150リットルが流れ込む。ポンプの能力は余裕があるが、浸透水が土砂と混ざると水処理施設がすぐに飽和する恐れがあった。
「地下水は敵と同じだ。一度侮れば飲み込まれる」
宮内は排水管の接合部を自ら確認し、工兵隊に指示を飛ばした。
労働者組合との摩擦
現場にはもう一つの重圧があった。労働者組合だ。作業員は防護服を着込み、粉塵の舞う中で12時間シフトに従事している。安全対策の要求は日ごとに強まり、組合代表は「休憩間隔を短くせよ」「換気改善の目処が立たなければ工事を一時停止せよ」と主張した。
「兵器のために掘るのか、人のために掘るのか」
組合代表の声に、宮内は答えを返せなかった。ただ、「止めれば都市全体が死ぬ」とわかっていた。
転機 ― 軟弱層の発見
そして決定的な瞬間が訪れた。掘削先端で轟音とともに壁が崩落し、泥水が噴き出した。緊急退避のサイレンが鳴り、作業員が慌てて退避路へ駆け込む。崩れ落ちたのは、地質調査では予想されていなかった“軟弱層”だった。
香川が泥に手を突っ込み、低く呟く。
「予想よりはるかに広範囲だ……これでは設計を根本から見直さねばならない」
国際監査団はすぐに会議を招集し、報告書に「設計変更必須」と記載。監査員の一人は冷たく言った。
「計画は最低でも三か月遅れる」
宮内はヘルメットを脱ぎ、泥に濡れた顔を拭った。背後で作業員たちが肩を落とす。要塞都市は現場で初めて「紙上の設計が崩れる瞬間」を迎えたのだった。
結び
パイロット工区の掘削は失敗ではない。むしろ、この段階で軟弱層を見つけたことこそが、計画全体を救う可能性がある。だが設計変更に伴う資材の追加発注、工期の再計算、政治的説明――すべてが新たな戦場となる。
矢代隆一は報告を受け、静かに言った。
「要塞を守るのは鉄でもコンクリートでもない。真実に向き合う勇気だ」
その言葉が、現場にいる全員の胸に重く沈んだ。