第53章 《防空と反撃の牙》
夜明け前の東京湾は鉛色の静けさを湛えていたが、深層C2のモニタールームは静かではなかった。レーダーとソナー、量子リンクのステータスランプが無数に瞬き、運用班の指先が休むことはなかった。ここ数日、敵側の偵察活動が増え、海空ともに“接触の可能性”が高まっている。矢代隆一中佐は総合防空ラインの最終確認を行っていた。
計画の骨子は単純明快だった。外郭に配置した中距離地対空ミサイル(中SAM改)を軸に、近接防空として短SAM-X(短距離システム)とCIWS相当の自走砲群を配し、さらにF-35Bと無人機群で上空を抑える。だが「地下都市」ならではの改変点は多い──発射口の偽装、縦坑による熱・排気処理、地下格納からの瞬時射出、量子リンクによる二重承認である。
佐伯俊は運用図を指さし、技術的な限界を述べた。
「中SAM改は有効射程50km、迎撃高度5kmまでカバーできます。配備は霞ヶ関直下の4基、中継縦坑は耐熱ライニング済み。ただし連続射撃は発射口の熱累積で3発が実効限度。短SAM-Xは射程8km、CIWSは最短1.5kmでの散布帯対策に使います」
「つまり、持久戦には弾数と冷却が鍵か」矢代が応じる。彼は地図上に赤い点を増やしながら言った。
「弾薬は地下弾薬庫と弾道短期ストック、各発射台に分散しておく。発射の権限はC2二重承認、緊急時は現場長とC2オペレーターの電子キーで自動発射可能にしておく」
白井真菜は環境に関わる問題を指摘する。
「地下発射は坑内ガスと粉塵の大量発生を伴います。縦坑での排気冷却と、排気時の瞬間陰圧化で居住区を守る設計が必要です。万が一の際は医療区画を15分以内で隔離する手順も必須」
運用は机上の論理だけでは終わらない。夜が明けた直後、早速実弾に近い試験が組まれた。外洋での模擬巡航弾をターゲットに、中SAM改の地下発射と短SAM-Xの連動迎撃を実地検証する。矢代は発射管制盤の前に立ち、手元の二重スイッチに人差し指を添える。発射前の手続きは厳格だ。量子鍵による承認署名──まず佐伯の端末から技術承認、次に深層C2長の承認。二つの鍵が揃って初めて電磁リレーが作動する。
第一波。地下発射口からダクトを通り、発射筒が水平に押し出される。ノズルの噴流は縦坑内で分散冷却され、排気は瞬時に窒素で希釈される。発射音が地下を震わせ、トンネルの奥でも振動が手に伝わる。弾道は計算どおり、目標海域へと伸びた。
だが迎撃の局面で予期せぬ事態が起こる。模擬標的は低空で急変舵を行い、短SAM-Xの誘導センサーが一瞬ロックを外した。CIWSは回転を上げて散布帯を形成するが、模擬弾の一部を逸らすに留まった。監視画面に赤いトレースが残り、オペレータが手を震わせる。
「逸れた……左舷に40m。被弾確度低下」
矢代は冷静に指示を飛ばした。
「二次射を準備! UAV群、赤外線ロック切替、F-35Bに誘導情報送れ」
F-35Bの待機機からは即座に上位データが返り、第二発のミサイルは海上で予備弾と正確に迎撃角を合わせた。CIWSの散布帯が効果を発揮し、模擬弾の残骸は海面に落下した。歓声は上がらなかった。現場の誰もがわかっていた。成功は確率の積み重ねであり、一回の逸脱が致命的になり得ることを。
試験後のブリーフ。佐伯は数値を並べた。
「第1迎撃の成功率は演習条件で78%。環境ノイズ、低高度の機動回避、そして敵のデコイ投射で確率はさらに下がります。改善点はセンサーフュージョンの遅延削減と短SAM-Xのソフトウェアアップデート、CIWS弾丸の散布密度の最適化です」
白井は肺の奥を押さえるように言った。
「さらに、発射の“痕”が地上に及ぼす影響です。粉じんと一酸化炭素の局所濃度、そして縦坑出口周辺の熱シグネチャ。それが人の住む区画にどれだけ波及するか。今日の排気処理は辛くも成功したが、連続発射は不可能です」
矢代は黙殺するように一呼吸置き、そして低く言った。
「連続発射を想定するな。抑止とは“連続”ではなく“不確実性”だ。敵にいつどこで牙が出るか分からせること。それが抑止の本質だ。発射能力の存在だけで、侵攻のコストを上げる」
だが数字は残酷だ。佐伯は感情を抑えつつ続ける。
「抑止と引き換えに、発射の際に受ける市民被害の確率はゼロではない。仮に最悪ケースとして縦坑冷却が失敗し、周辺区画の換気が逆流すれば、即時に呼吸障害が発生します。医療ブロックの収容能力を今の倍に増やす必要があります」
矢代の目に一瞬、疲労が走った。彼は指揮官だ。数字だけでなく責任も背負う。
「やる。だが同時に増援ルートと避難シナリオを速やかに確定せよ。発射は最後の手段であると同時に、最後の手段を行使できるだけの体制を整える。それが我々の仕事だ」
数日後、別の実弾試験が予定された。今回は敵の低反射巡航弾に対する複合迎撃である。深層C2のセンサーフュージョンが改善され、UAVのリアルタイム解析が短SAM-Xに直接フィードされるようになっていた。短SAM-Xは自動追尾アルゴリズムの更新で制御遅延が30ms縮小され、CIWSの散布パターンも最適化された。迎撃は成功し、システムは一歩前進した。
だが矢代は最後に、モニターを見つめながら呟いた。
「牙を持つことは容易だ。牙を持ちながら人を生かすことは――その遥かに難しい」
白井は静かに答えた。
「兵器は轟くが、我々が守るのはそれ以上に静かなもの。病床の呼吸、子どもの眠り、配給を待つ老女の手。抑止はそれらを守るための道具であってほしい」
深層C2のスクリーンは消え、モニターの最後のログが保存される。配備計画は修正を重ね、ROE(交戦規定)はさらに厳密になった。発射の牙は配備された。しかしそれは、抑止のためだけでなく、守るべき人々のためにある──その自覚を、矢代たちは一度も忘れなかった。