第41章 《山岳の口》
朝靄に包まれた奥多摩の山道を、調査隊の車列が軋むような音を立てて進んでいた。トラックの荷台には掘削機材と発電機、簡易放射線測定装置が積まれ、車輪は崩落で荒れた路面をきしませながら登っていく。戦時下で放置された集落はすでに無人。畑は荒れ、民家は瓦礫と化し、ガラスの破片だけが朝日を反射していた。人影のない山村に、カラスの声とディーゼルエンジンの唸りだけが響く。
矢代隆一工兵中佐は先頭車両から身を乗り出し、双眼鏡で谷を見下ろした。眼下には、東京に続く補給ルートがかすかに霞んで見える。戦艦大和の艦上での議論から数日、彼は「地下都市を生かすための根幹」=補給線の起点を探す使命を帯びていた。地上の首都は死んだ。だが山岳は生きている。岩盤は燃えず、津波は届かない。ならば、この山々こそが地下都市の肺と心臓を繋ぐ血管の口になると彼は考えていた。
やがて車列が停止すると、岡部慎吾一等陸曹が真っ先に降り立った。もと重機オペレーターの彼は地形を見るなり、顔を輝かせた。
「中佐、見てください。ここならダンプも入れる。旧陸軍の資材置き場跡ですよ。コンクリートの擁壁がまだ残ってます」
指差す先には、土砂に半ば埋もれた古びた坑口があった。錆びた鉄扉には「昭和十九年 建設」の文字がうっすらと読み取れる。戦時中に掘られた防空壕か貯蔵庫だったのだろう。矢代はヘルメットを整え、無言で歩み寄ると手袋越しに冷たい鉄扉を叩いた。鈍い音が、腹に響いた。
佐伯俊技官がモニター付きの計測器を担ぎ出すと、坑道内の空気データが表示された。酸素濃度は18.9%、湿度は90%。温度は地上より安定しており、13度前後を保っている。
「岩盤は安定しています。落盤の危険は低い。湿度は高いですが、換気シャフトを掘れば利用可能です。この規模なら内部容積は三千立方メートル以上、燃料タンクや弾薬庫の分散配置が可能です」
矢代は腕を組み、目を細める。
「分散格納すれば、たとえ一か所を直撃されても全滅は避けられるな」
白井真菜技術補佐はセンサーを片手に、慎重に坑道の奥へ進んだ。小型探査機のランプが闇を切り裂き、岩壁の亀裂を照らす。
「水分反応あり……地下水脈が走っています。飲料水として使うなら逆浸透膜での浄化が必要ですが、冷却材や消火用水としては理想的です。水量は毎分20リットル以上。継続的な利用が可能です」
彼女の声は少し上ずっていたが、解析結果を読み上げる瞳には科学者としての確信が宿っていた。
一方で安西洋平衛生兵は、坑道入口に残された堆積物を採取していた。簡易バイオセンサーが警告音を発する。
「カビと真菌が繁殖しています。長期駐屯すれば呼吸器感染症のリスクが高まります。湿度90%は想定以上。衛生管理は必須ですね。被曝はほぼ自然レベルですが……免疫の弱い子供や老人は危険です」
矢代は彼の言葉を聞きながらも、坑道の奥に視線を投げた。
「感染の恐れはある。それでも、燃料も弾薬もなければ都市は死ぬ。衛生は後からでも強化できるが、補給線は一刻を争う」
佐伯が口を開いた。
「中佐、技術的には可能です。しかしここを燃料庫にすれば、敵は必ず探知します。周囲に民間人が残っていれば犠牲は避けられない。地下都市が“軍事拠点”と化せば、国際的な非難も免れません」
矢代は険しい眼差しで佐伯を見据えた。
「国際世論は死者を守ってはくれん。我々が守るのは、この国そのものだ。理想論は理解する。だが、現実には抑止こそが命を救う唯一の術だ」
坑道の暗闇から、滴る水滴の音が反響した。そのリズムは、遠い昔から続く山の呼吸のようでもあり、今まさに目覚めようとする要塞の胎動のようでもあった。
岡部は扉の錆をこすりながら笑った。
「掘り起こせば、ここはきっと使える。燃料でも食料でも詰め込めますよ。生き残る口が増えるんだ」
白井は黙ってうなずき、安西はマスクを直しながら坑道の奥を見つめた。佐伯は最後まで懐疑的な表情を崩さなかったが、その目の奥に「技術者としての挑戦心」が宿っているのを矢代は見逃さなかった。
こうして奥多摩の山腹に眠っていた旧軍の坑道は、「山岳補給ハブ」として再生される運命に置かれた。数十年前の敗戦の残滓が、次なる戦争のための血管として甦ろうとしていた。