第38章 《神話と月:支配の言語》
村の神殿には香が焚かれ、青い煙が渦を巻いて立ち昇っていた。外では満月が天にかかり、広場は祈りの歌で満たされていた。
「ナンナよ、シンよ、わが祈りを聞き入れたまえ」
老祭司アフは声を張り上げた。バビロニアでは月神ナンナ(シン)が暦を司ると信じられていた。エジプトではトートが、ギリシアではセレネが、日本では月読命が、同じように人々の時間を統べていた。
その夜は特別だった。月が突然、赤銅色に染まりはじめたのだ。
月と儀礼暦
祭司パネシは集まった人々に告げた。
「見よ、月はただ輝くだけではない。その満ち欠けは祭の時を決め、課税や婚姻、巡礼の時をも示す。新月は始まりのしるし、満月は完成のとき。だから暦は月神の言葉なのだ」
ケムが首をかしげる。
「でも農耕は太陽の季節で動くんだよね?」
「その通りだ」パネシは頷いた。「だからこそ暦は二重に組まれる。太陽で農を、月で祭を支配し、両者を調律する。そうして人々の暮らしを一つの秩序に束ねるのだ」
赤銅色の月食をめぐる解釈
やがて満月は完全に影に沈み、赤く不気味に輝いた。村人たちは恐怖に駆られて叫び声を上げた。
「月が血に染まった!」
「これは神の怒りだ!」
祭司たちはすぐに贖罪の儀式を始めた。供物が火に投じられ、歌が響く。
「罪を祓い、王を守れ!」
だが測量士ネフは首を振った。
「これは自然現象だ。地球の影が月を覆っているだけだ。やがて月は白さを取り戻す」
その言葉に、若者たちは一瞬安堵したが、長老アフは杖を突き立てて反論した。
「民を鎮めるには恐怖が要る。赤い月は王権が正義を行うしるしと告げねばならぬ。さもなくば人々は従わぬ!」
王権と恐怖の統治
やがて王が現れた。月食のただ中、彼は群衆の前に立ち、厳かに宣言した。
「この赤い月は、民の罪を警告する神の声である。祭司たちと共に祈りを捧げよ。王は神意を受け、秩序を守る者なり」
群衆は地にひれ伏し、祈りを繰り返した。恐怖が王権の威を補強する瞬間だった。
一方で、ネフとケム、メリトは月を凝視し続けていた。赤銅色の満月がやがて影から抜け、白銀の輝きを取り戻すのを確認すると、彼らは小声で囁き合った。
「やっぱり……自然の理だった」
「けれど人々は恐怖を信じ、王はそれを利用する」
神話と科学のせめぎ合い
パネシは二人に静かに告げた。
「神話は支配の言語だ。恐怖を糧に人を従わせる。だが科学は未来を予言できる。やがて月食の周期を見抜いた者が現れれば、恐怖は支配の道具から知の証へと変わるだろう」
ケムは拳を握りしめた。
「その時が来れば、赤い月に怯えなくてもいいんだね」
「そうだ」パネシはうなずいた。「神話に縛られた月を、記録と予測で飼いならすのだ」
夜空に再び白い月が輝いた。恐怖に震える群衆と、理を見抜こうとする若者。その対比は、神話から科学への長い旅の始まりを告げていた。