第37章 《記録と計算:粘土板・竹簡・パピルス》
大広間に集まった村人の前で、祭司パネシは長机に粘土板を並べていた。そこには細かい刻み目と数列が記され、松明の光を受けて影を落としていた。
「これは月の記録だ。満ち欠け、出没、食の時刻――すべてがここに刻まれている」
子どもたちが驚いた声を上げた。
「数字の板なんて……これが月を写すの?」
パネシはうなずいた。
「数と記録こそが天をつかむ道具だ」
メソポタミアの粘土板
ネフが一枚を手に取り、刻印を指でなぞった。
「ここには逆数表が書かれている。割り算を簡単にするための表だ。メソポタミアの書記官は六十進法を使い、複雑な乗算や日数の換算をこなしていた」
パネシは補足した。
「十九年=二百三十五朔望月――メトン周期の関係も、このような計算で導かれたのだ。十九太陽年を数え、朔望月の合計と照らし合わせれば、ずれはわずかしか残らぬ」
ケムは感嘆の声をあげた。
「計算で季節と月を合わせるなんて、魔法みたいだ!」
中国の竹簡と章法
メリトは別の束を手に取った。細長い竹簡に、墨で九九の表が書かれていた。
「これは中国の書記が使った“九九”。掛け算を暗誦することで、大人数の書記が同じ基盤で計算を進められるようにしたんだ」
パネシはうなずき、さらに説明を加えた。
「章法という計算術では、閏月をどこに挿入するかを規則的に決める。たとえば十九年のうち七回、閏月を置く。そうすれば月と太陽の差はおおむね調律される」
ホルが言った。
「つまり暦を正しく運用するには、計算を共有し、記録を残す仕組みが欠かせなかったのだな」
エジプトのパピルスと分数
続いて、羊皮紙の上にパピルスが広げられた。そこには分数が列挙されていた。
「エジプト人は独特の“分数表”を使った。一を分けて扱う術だ。彼らは一年を三十日×十二か月とし、さらに五日を加えて三百六十五日とした。その補正を分数で記録していたのだ」
ケムが小声でつぶやく。
「同じ月を見ているのに、数え方が国ごとに違うなんて……」
誤差との戦い
だが計算には必ず誤差が生じた。パネシは粘土板を指しながら言った。
「観測の誤差には二つある。ひとつは偶然の誤差――雲や人の見間違い。もうひとつは系統の誤差――測定の基準がずれている場合だ。これを区別しなければ、暦はすぐに乱れる」
ネフはうなずいた。
「だからこそ複数人で記録し、照合する必要があるんだな」
書記官の権限争い
しかし、その記録こそが争いを生んだ。
ある夜、村の広場に怒号が響いた。若い航海士たちが粘土板を掲げて叫んだ。
「収穫祭の日が、記録と違うではないか! 暦が権力者に都合よく“調律”されたのだ!」
パネシは表情を曇らせた。
「……記録は改竄されていない。だが閏月を挿れるか否かは解釈の余地がある。その決定が王や祭司の意志に左右されることもあろう」
村人たちはざわめいた。暦の数字が政治に利用される現実が、明るみに出た瞬間だった。
記録から予測へ
メリトは竹簡を抱きしめ、静かに言った。
「でも、たとえ権力に利用されても……記録があれば真実を確かめられる。繰り返せば、未来を予測する力になる」
パネシは深くうなずいた。
「その通りだ。記録はただの数字の列ではない。未来を読む鍵なのだ。粘土板も竹簡もパピルスも、人が未来を見ようとした証である」
広場に沈黙が訪れた。月はすでに南中し、石列の上に輝いていた。記録と計算――それは秩序を支える武器であると同時に、権力をめぐる争いの火種でもあった。
だがケムとメリトの胸には、新しい希望が灯っていた。
「記録を積み重ねれば、必ず未来が読める」
「そしてその未来を、人の都合ではなく、天の理に合わせられるはずだ」
二人はそう誓い、夜空の月を見上げた。




