第31章 《月の軌道は“5°ちょっと”傾いている—18.6年のゆっくり変化》
ある冬の夜、村人たちは東の地平線に現れた月を見て息をのんだ。月はまるで北の森の上から昇るように、大きく赤みを帯びていた。
「昨日までの月はもっと南からだったのに!」メリトが驚きの声を上げた。
「どうして今日はこんな端から出てくるの?」ケムも目を丸くする。
年長のホルはゆっくり頷いた。
「わしが若い頃も同じように驚いた。月は日ごとに出る位置を変えるだけでなく、何年もかけて大きく北や南に振れるのだ」
祭司パネシは静かに杖を掲げ、語り出した。
「月の道は、太陽の道と同じではない。太陽は黄道を通るが、月はその黄道からおよそ五度だけ傾いた道――“白道”を通る。この小さな傾きが、長い年月のうちに大きな違いを生むのだ」
彼は砂地に二つの円を描き、少しだけ傾けた。
「このズレがあるために、月はあるときには黄道より北に、あるときには南に大きく寄る。その赤緯の最大と最小の差は、約18年半で一巡する。これを“月の章動”という」
ケムが目を輝かせた。
「18年半? そんなに長いの?」
「そうだ」パネシはうなずいた。「月の赤緯は普段、±23°ほどの範囲を行き来する。だが章動の大きな極みのときには±28.6°まで広がり、小さな極みのときには±18.3°まで狭まる。これが18.6年の周期で繰り返されるのだ」
村人たちはざわめいた。子どもが大人になり、世代が交代するほどの長さだったからだ。
メリトは考え込んで言った。
「じゃあ、今見ているこの北寄りの月は、“大きな極み”のときなんだね」
「その通りだ」パネシは答えた。「月がここまで北や南に寄るのは、この長い周期の証。次に同じ位置に戻るのは十八年と半年後だ」
ホルは焚き火を見つめながら言った。
「十八年……子どもが成人する年月だな。だが月は忘れずに同じ道を繰り返す」
パネシは続けた。
「この周期を知ることは、祭りや農耕の暦を定めるだけでなく、世代を超えて知識を伝えることでもある。月の極みを記録する石や杭は、子から孫へと伝える“天の証文”なのだ」
その後、村人たちは広場に大きな石を並べた。北と南の端に石を置き、月が極みに達したことを記録するのだ。子どもたちは石を運びながら声を弾ませた。
「これなら次の世代も月の道を知ることができるね!」
やがて年月が過ぎ、再び月が北の端に姿を現したとき、若者だったケムとメリトはもう成人していた。村人たちは石列の間から昇る赤い月を仰ぎ、感慨深く息をのんだ。
パネシは厳かに告げた。
「見よ、これが大きな極みだ。十八年半の時を経て、月は再びこの道をたどった。人は変わり、村は変わる。だが月の周期は変わらぬ。これこそ天の秩序なのだ」
村人たちは石列を前に祈りを捧げた。月の章動はただの天体の動きではなく、世代を超える記憶と秩序の証だった。