第20章 《単純さの罠:満ち欠けと日数の把握》
冬の夜、村の子どもたちは焚き火を囲んで空を見上げていた。丸々と太った月が東の空に昇り、白銀の光を大地に注いでいる。
「どうして月は昨日より丸いの?」と幼いメリトが尋ねる。
年長のケムは胸を張って答えた。「明日はもっと大きくなるよ。やがてまんまるになって、それから欠けていくんだ」
祭司パネシは笑みを浮かべ、杖で地面に円を描いた。
「そうだ。月は形を変える。細い弓のような三日月から、半分、満月、また半分、そして闇に沈む新月へ――これを繰り返す」
子どもたちは目を輝かせた。彼らにとって月の満ち欠けは、夜空の中で最もわかりやすいリズムだった。
満ち欠けのリズムと暦の始まり
古代の人々にとって、月の形は「時間」を測る最初の道具だった。
•三日月が見えれば「月の始まり」。
•半月で「月の中頃」。
•満月は「ひと月の頂点」。
•そして再び闇に沈む。
この繰り返しは約30日の単位を自然に刻み、最初の「暦」となった。狩猟採集の時代には、獲物の動きや潮の満ち引きと結びつき、農耕の時代には種まきや収穫の時期を示す目安となった。
実際、アフリカのイシャンゴの骨(約2万年前)には、29刻みの切れ込みが残されている。フランス・ラスコー洞窟の壁画にも、月の相を数えたとみられる点列が描かれている。月は人類史の早い段階から「日数を数える道具」とされていた。
半端な29.5日という壁
だが、ここに最初の罠があった。
月の満ち欠けはきっちり30日ではない。正確には 29.53日(朔望月) で一巡する。
この「半日余る周期」が古代人の理解を大きく妨げた。
•30日と数えると、毎年少しずつズレてしまう。
•29日と数えると、今度は早く一巡してしまう。
•29と30を交互に置くと改善されるが、完全には合わない。
子どもたちは「なんで月は30日で元に戻らないの?」と不思議がる。大人たちは答えられず、「月には気まぐれがある」と神話で語るしかなかった。
神話という解釈の網
パネシは子どもたちに物語を聞かせた。
「月は女神であり、毎月、死と再生を繰り返す。だから時に急ぎ、時に遅れるのだ」
こうした神話は人々の不安を和らげ、リズムの「半端さ」を説明する役割を果たした。しかし、同時に科学的理解の芽を覆い隠すことにもなった。
人は「規則性」を愛する。30日や12か月といったきれいな数字は覚えやすい。だが月はあえてその枠を壊すように、29.5日という微妙な周期を突きつけたのだ。
太陽との関係を見落とす
本当の原因は、月が太陽の光を反射していることにある。地球から見える形は、太陽と月と地球の位置関係で決まる。
だが古代人は、夜空で輝く月と昼間の太陽を「別々の存在」として捉えていた。二つの天体が実は関係しているという発想にはなかなか至らなかった。
そのため、満ち欠けは「月そのものの変化」と思われ、太陽との幾何学的な関係を解き明かす道は遠かった。
まとめ:最初の壁
•月の満ち欠けは、古代人にとって「一番身近で、目に見えるリズム」だった。
•しかし29.5日という半端な周期が、整数好きな人類にとって理解の壁となった。
•太陽との関係性が見落とされ、神話や信仰に包まれることで「なぜ変わるのか」が解かれないまま残った。
焚き火の明かりの中で、子どもたちは月を数えながら眠りに落ちた。彼らにとって月は「時間の先生」だったが、同時に「気まぐれな謎」でもあった。