第14章 動く星と動かぬ星
ナイルの水面は月光に照らされ、銀の帯のようにきらめいていた。風はほとんどなく、川辺に並ぶ葦がわずかに揺れるだけ。村の子どもたちは広場に集められ、焚き火の灯りを背に夜空を見上げていた。
老祭司パネシが杖を握りしめ、静かに言った。
「よいか。今日お前たちに見せるのは、太陽ではなく“夜の太陽”だ」
子どもたちは顔を見合わせた。ケムが小声でささやく。
「夜に太陽なんてあるの?」
メリトが肩をすくめる。
「きっと星のことを言ってるんだわ」
パネシは微笑み、北の空を指さした。
「見よ。頭上から西の方へ流れる星々を」
子どもたちは息をのんだ。無数の星が、ゆっくりとだが確かに動いている。
ケムが声を上げた。
「本当だ! さっきあの星はあの木の上にあったのに、今はもうずれてる!」
メリトも目を凝らした。
「こっちの星も! みんな少しずつ西の方へ流れてる!」
建築師ホルが焚き火に木をくべながらうなずいた。
「星は夜ごとに昇り、沈む。太陽と同じようにだ」
パネシは厳かな声で続けた。
「その通り。大半の星は東から昇り、西に沈む。だが……すべてがそうではない」
メリトが首をかしげた。
「全部が沈むんじゃないの?」
パネシは北の空を杖で示した。
「よく見よ。あそこだ。あのあたりの星々は、夜が更けても沈まぬ」
子どもたちは目を凝らした。たしかに、北の空に並ぶ星は、他の星のように沈まず、同じ場所で瞬き続けているように見えた。
ケムが驚きの声をあげる。
「動いてない! あの星は動かないんだ!」
メリトは息を弾ませながら叫んだ。
「夜が始まってから、ずっと同じところにある!」
パネシはゆっくりと頷いた。
「その星の名は“トゥバン”。りゅうの背にある星だ。完全に止まっているわけではないが、他の星よりもずっと動きが小さい。だから人はこれを“動かぬ星”と呼ぶ」
ホルが口を挟んだ。
「建物を建てる時、南北をまっすぐに通すには難儀する。だがこの星を基準にすれば、大きな狂いは出ない。大いなる神殿を立てる時、この星は道しるべとなる」
農夫アフも感慨深げに言った。
「川沿いでなくても、この星を目印にすれば帰れるかもしれぬな……夜に迷わず歩けるなんて」
ケムは目を輝かせ、メリトに言った。
「ねえ、じゃああの星が“北”なんだね!」
メリトは少し考えて首を振る。
「でも師が言ったでしょ。止まっているように見えて、少しずつ動いているって」
パネシは杖を地に突き、子どもたちに向き直った。
「よく気づいたな。確かに、トゥバンは完全に動かぬわけではない。だが、北の空を見れば、星々が円を描くように回っているのが分かるはずだ。その輪の中心に近いほど、動きは小さくなる」
ケムがはっとしたように叫ぶ。
「じゃあ、動かないように見える星は、輪の真ん中に近いんだ!」
パネシは深く頷いた。
「そうだ。だからこそ、それを北の目印として用いるのだ」
子どもたちはしばらく黙って北の空を見つめた。星々がわずかに位置を変えながらも、その中心付近にある星は揺るぎなく輝いていた。
メリトがぽつりとつぶやいた。
「太陽が東と西を教えてくれるなら……夜はこの星が北を教えてくれるんだね」
パネシは静かに目を閉じ、言葉を結んだ。
「その通りだ。人は昼も夜も、天に目を向ければ道を失わない。太陽と星――二つの光が、我らに秩序を与えてくれるのだ」
焚き火の炎が弾ける音が響き、子どもたちは目を輝かせたまま星空を仰ぎ続けた。
その夜、彼らは初めて「動かぬ星」を心に刻み、北という方角を知る入口に立ったのであった。