第13章 東西が先に決定された日
まだ空が薄墨色に沈んでいる時刻。ナイルの川面は静まり、冷たい風が頬を撫でた。丘の上には杭が並び、子どもたちが息を潜めていた。老祭司パネシと、その弟子たちケムとメリトも、固唾をのんで東の地平を見つめていた。
「よいか、もうすぐだ」パネシが低く言った。
「今日の太陽は、真ん中の杭から昇る。神々が示す均衡の日だ」
ほどなく、赤い光が地平を染め、太陽が杭の先から顔を出した。村人たちが歓声をあげ、子どもたちも目を見開いた。
「ほんとうに真ん中から!」ケムが叫ぶ。
メリトも息を弾ませた。
「昨日までは少し南だったのに……今日はぴったり真東!」
太陽が昇り切ると、パネシは杖で杭を示した。
「見よ。太陽は毎日昇るが、その場所は季節で変わる。だが、この日――春分と秋分には必ず真ん中から昇る。これが“真東”だ」
ケムが首をかしげる。
「でも、南や北はどうやって分かるの?」
パネシは少し考えてから答えた。
「南北は太陽の影を追えば分かる。だが影は動き、最短を見極めるには時を待たねばならぬ。北極の星もあるが、動かぬように見えてわずかに揺れておる。完全に頼るのは難しい」
メリトが口を挟む。
「でも太陽は毎日必ず昇って沈む! 東と西はすぐ分かる!」
パネシは満足げに頷いた。
「その通りだ。ゆえに最初に人が知ったのは“東”と“西”だ。南北を知るのはその後だ。東西は太陽が示す最も分かりやすい秩序なのだ」
その日の昼、広場で弟子たちは棒杭を立て、影の動きを観察した。影は長く伸び、徐々に短くなり、再び伸びていった。
ケムが額に汗を浮かべて言った。
「師よ、影はたしかに動いてるけど、いつが一番短いのか分かりにくい!」
メリトも困った顔をする。
「朝と昼の境目はすぐには分からない。やっぱり夜明けや夕暮れのほうが簡単だよ」
パネシは杖を地面に突き、真剣な声で言った。
「それこそが真理だ。南北を見出すには時間と根気がいる。だが東と西は一目で分かる。ゆえに神殿もまず東西に合わせて建てられるのだ」
夕暮れ。太陽は赤く燃え、西の杭の真ん中に沈んでいった。川の水面が黄金に染まり、村人たちが静かに手を合わせた。
ケムがぽつりと呟く。
「東から生まれ、西へと死ぬ……太陽は毎日その道を行くんだね」
パネシは彼の肩に手を置き、低く言った。
「そうだ。だから東西は生命の道だ。人もまた東から来て西へ去る。これを最初に知った人間は、方位のうちでまず東西を定めたのだ」
夜、星々が昇ると、メリトは北の空を指差した。
「見て! あの星はあまり動かないみたい!」
パネシは目を細めて言った。
「よく見ているな。あれが北を示す星――だが、完全に止まっているわけではない。やがて南北を知る助けとなるだろう。だが先に定まったのは東西だ。太陽の道こそが、人が最初に見つけた秩序だからだ」
子どもたちはしばらく黙って夜空を見上げていた。
ケムがやがて小さな声で言った。
「東西が先……でも南北も、きっと大事なんだね」
パネシは深く頷いた。
「その通りだ。東西は生と死、南北は力と不変。四方をそろえて初めて、宇宙の秩序が完成するのだ」
その言葉は、ナイルの夜風に乗って、星々の光の下に静かに溶けていった。