第5章 太陽はどこから来るのか
まだ空が青黒く沈んでいる時刻。ナイル川沿いの小さな村に、鳥の声が一つ二つと響きはじめた。子どもたちは眠そうな目をこすりながら、村の外れの小丘に集まった。老祭司パネシが呼んだからだ。
「目を開けておけ。すぐに太陽が昇る」
パネシは長い杖を突き、川の向こうの地平線を指さした。そこには黒い山影が横たわり、その端がぼんやりと赤く染まりつつある。
子どもの一人、ケムが首を傾げる。
「ねえ、師よ。太陽はどうして毎日、あの山の同じところから顔を出すの?」
パネシは目を細め、ゆっくり答える。
「同じに見えるだろう? だがよく見れば少しずつ違う。昨日よりも、今日の太陽はほんのわずかに南寄りから昇る」
子どもたちは驚いて顔を見合わせた。彼らには毎朝同じに見えていたからだ。
「では、どう呼べばよいの?」別の少女メリトが聞いた。
「我らは、太陽の昇る方を“東”と呼び、沈む方を“西”と呼ぶことにしよう」
パネシの声は静かだが、確信に満ちていた。
やがて太陽の上端が赤々と顔を出した。川面がきらめき、村の小屋の屋根を照らしはじめる。子どもたちは思わず息を呑んだ。
「まぶしい!」とケムが叫んで目を覆う。
「これが“東”か……」メリトは呟いた。
パネシは微笑んだ。
「そうだ。そして、今夜、太陽は反対の地平に沈む。そこを“西”と呼ぶのだ。人は生まれて東から現れ、死して西へと去る。太陽はその道を毎日たどっている」
子どもたちは神妙に頷いたが、すぐにまた好奇心をぶつけてきた。
「じゃあ、太陽は夜のあいだどこへ行ってるの? 川の底に沈んで、また出てくるの?」
パネシは笑い、頭を振った。
「それは神秘のことだ。だが確かなのは、太陽は必ず“東”から戻ってくるということだ」
日が昇るにつれ、村の大人たちも畑に出てきた。農夫のアフが声をかける。
「おい祭司さま、今日はどこから昇ったか?」
「昨日よりも少し南だ」
「そうか……ならば季節が変わりつつあるな。そろそろ種まきの準備をせねば」
子どもたちはその会話を聞き、太陽の出没が生活と深く結びついていることを悟った。
日が高くなるころ、パネシは子どもたちを再び集めた。
「よいか。太陽の昇る方を“東”、沈む方を“西”と呼んだ。だがこれで終わりではない。東も西も、季節によって少しずつ動いていく。だから我らは“観測”を続けねばならぬ」
ケムが不思議そうに眉をひそめる。
「毎日見て、何になるの?」
パネシは杖で地面に線を引いた。
「毎日印をつけてゆけば、太陽がどこから昇り、どこに沈むか、その“道”が見えてくる。やがて、年ごとの大きな流れが分かるだろう」
メリトが小さく声をあげた。
「太陽はただの光じゃない……暦の道しるべなんだ!」
パネシは満足げに頷いた。
「その通り。太陽の道を知れば、我らは氾濫の季節を予測できる。種まきの時も、収穫の時も、すべて太陽が教えてくれる」
その日の夕暮れ。子どもたちは丘に戻り、沈む太陽を見送った。赤い光は地平に溶け、夜の闇が静かに広がっていく。
「西だ……太陽は沈んだ」ケムが呟く。
「でも、明日また東から戻ってくる」メリトが続ける。
パネシは夜空を見上げ、まだ淡く輝き始めた星々を指差した。
「よいか、子らよ。太陽だけではない。星々もまた道を示している。いつかお前たちは、東と西だけでなく、南と北も見出すだろう」
子どもたちは互いに顔を見合わせ、わくわくした気持ちで夜空を見つめた。
こうして、人々は初めて「東」と「西」という概念を言葉にし、方位を捉えはじめたのであった。




