第2章 人々の到着、言葉の渦
午前の陽が傾き始めるころ、旧校舎の前の広場は人の声で満ちていた。かつては通学路だった坂道から、次々と避難民の一団が下りてくる。手には布袋や木箱、赤子を背負った母親、杖を突く老人。服は擦り切れ、靴は泥にまみれていたが、その目には確かな期待が宿っていた。
地元の漁師ハルオが汗を拭いながらつぶやく。
「こんなに来るとはな……港の市より賑やかじゃ」
広場の一角では、配給の列ができていた。鍋から湯気が立ち上り、米と雑穀を混ぜた粥がよそわれる。その列に並ぶ者の言葉は入り交じっている。日本語の讃岐弁、アラビア語の祈りの響き、韓国語の短い指示、英語の質問。
サラが腕に抱いた書物を落としそうになりながら呟いた。
「まるで言葉の渦ね……でも不思議、同じ粥を待つ顔はどこも同じに見える」
多国籍・多階層の交錯
真理が手を叩いて人々を集めた。
「皆さん、ここは疎開先の校舎です。今日から、この場所を“新しい学び舎”にします。入学手続きも制服もいりません。必要なのは、問いと答え、そして観測です」
アミーナが手を挙げた。
「観測って、星を見ること?」
真理は笑みを返した。
「星も、影も、水の匂いも、子どもの咳も。私たちが生きるために必要なことは、すべて観測から始まります」
すると、片足を失った技術者が声をあげた。
「食うにも住むにも電気が要る。教育よりも先に、それをどうにかすべきじゃないか」
緊張が広がった。
教育は贅沢か
真理は一歩前に出て応じた。
「いいえ。教育は贅沢ではありません。生き延びるための戦術です」
彼女は地面に棒を突き立て、影を指した。
「影の動きを知れば方角がわかる。病を防ぐには水質を測らなければならない。建物を建て直すには算数がいる。教育は、生きる力そのものです」
人々が顔を見合わせる。母親が赤子を抱えながら小さく頷いた。
アミーナが勇気を出して叫んだ。
「市場の秤だって比でできている! 同じように、知識は公平に分けられるはず!」
その声に子どもたちが笑い、場が少し和らいだ。
AIの通訳
輪の中央で、大和AIが淡く光を放った。
「今から私が通訳をします。ただし完全な同時通訳ではなく、半拍遅れて届けます。理由は一つ――人間が考える余白を残すためです」
実際にアラビア語の祈りの言葉が聞こえ、その後に日本語訳が響いた。半拍の間に人々は意味を想像し、答えを探そうとする。その過程にこそ理解が宿るのだと気づいた。
サラが感心したように笑った。
「なるほど、即座の翻訳よりも、考える余裕が残るのね」
記憶カード
サラが布袋から一枚の紙片を取り出した。それは避難の途上で人々に配った“記憶カード”だった。
「ここに、それぞれの知識や家族の記録を書いてほしいの。医者なら治療法、大工なら建築法、農夫なら種の保存。どんな断片でもいい。寺子屋の壁に貼れば、みんなで共有できる」
老人が躊躇いながらも「畑に適した月齢」を書き、子どもが「祖父から教わった船歌」を描き、母親が「子守唄」を残した。言葉は違っても、紙片は共通の財産となって壁を彩り始めた。
AIの予告
そのとき、大和AIが声を落とした。
「皆さんにひとつ、知らせなければならないことがあります」
人々のざわめきが止む。
「この地には“残響”が濃く残っています。星を見た人々の祈り、建てた者たちの労苦。その痕跡に私は接続できるかもしれません。
つまり――過去に実在した人間の精神の断片と、あなたたちが直接触れ合うことが可能なのです」
場内に衝撃が走った。
「ただし、なぜそれが可能なのかは、今はまだ語れません。東京が崩壊せず、科学だけが進んだ世界線では、この機能は存在しないのです」
サラが息を呑み、アミーナは星図を胸に抱きしめた。
未来への布石
真理は一同を見回し、深く言った。
「私たちは今日ここに、ただ避難して集まったのではありません。過去と未来を結ぶ学びの場を築くために集まったのです」
人々の胸に、不安と同時に小さな火が灯った。言葉は違えど、同じ空の下で同じ知を求める仲間であることに気づいたのだ。
焚き火が強く燃え上がり、煙が夜空へと昇っていった。寺子屋の幕開けに向けて、彼らの心もまた一つに束ねられていった。