第1章 塩の匂い、発電の唸り
まだ夜が明けきらぬ午前五時、瀬戸の海は霧に包まれていた。小さな波が桟橋に寄せて砕け、その音が古びた木造校舎まで届いてくる。
旧校舎は戦前の建築で、半壊した体育館の壁がむき出しになっていた。潮風で鉄骨は赤く錆び、窓ガラスはところどころ割れたまま。しかし、そこが今から「新しい学び舎」となるのだった。
電力を確保する朝
ドンヒョンは校庭に置かれたインバータのパネルを睨みつけていた。
「また周波数がずれてる。これじゃ安定しない」
彼は手慣れた動作で配線を調整し、波形のブレを抑え込む。隣では周が木箱で配電盤を囲み、塩害を防ぐために布で覆っている。
「海風は甘く見ちゃいかん。三日で錆びる」
周の声は低いが確かだった。
発電機が唸りを上げ、ライトが一斉に点いた。暗闇に沈んでいた校庭が少しずつ浮かび上がり、人々は思わず拍手した。
黒板と書物の準備
真理は教室の奥で古い黒板を磨いていた。
「ここが黒板になる。机はないけど、地面があれば十分」
隣ではサラが、海水で湿気た書物を乾燥させていた。瓦礫の図書館から救い出した本だ。彼女はページに薄紙を挟み、慎重に天日干ししていく。
「本は人の記憶。これを守れなければ、子どもたちに渡せない」
彼女の声に、周囲の子どもたちが頷いた。
星と音の観測
漁師ハルオは、夜明け前の空を仰いでいた。
「東の雲が薄い。今日は凪だろう」
アミーナは星図を手に近づき、指を差した。
「ほら、まだ残ってる。沈まない星――トゥバン」
ハルオが目を細める。「昔から、あの星は方角を教えてくれる。海でも山でもな」
ユキは校舎の鐘に触れ、耳を澄ました。
「……鳴る前の空気の音。静かになる」
その言葉にハルオは目を丸くした。
「ほう……影が止まるときと同じだな。子どもの耳は鋭い」
AIの兆候
広場の片隅で、大和AIの投影装置が起動した。画面には波形や数値が走る。
「同期値、遅延0.21秒……修正。……あれ?」
真理が表示を覗き込むと、数字が急に0.08秒へ落ち込んだ。
AIが一瞬だけ声を揺らした。
「……これは、この世界線特有の現象です」
人々は顔を見合わせた。誰も意味を理解できなかったが、そこに「何かが繋がり始めている」ことだけは直感した。
開校への緊張
やがて朝日が山の端から差し込み、広場を黄金色に染めた。影が長く伸び、黒板の上にゆっくりと移動していく。
真理はチョークを握りしめ、子どもたちに向かって言った。
「今日からここで学びます。読み書き計算だけじゃない。星を読み、潮を嗅ぎ、影を測る。全部、生きるための術です」
アミーナが星図を高く掲げた。
「星は国境を越える! ここでも私の国と同じ星が見える!」
ユキが鐘を指差す。「鳴る前の音、聞こえるよ」
その声に、大人たちは目を細めた。
幕開け
焚き火の煙が立ち昇り、潮の匂いと混ざって広場を包んだ。
準備は整った。発電の唸りと子どもたちの声、そしてAIのかすかな光が重なり合い、新しい時代の学び舎の鼓動がそこに生まれていた。
真理は黒板に大きく文字を書いた。
「新寺子屋」
人々は息を呑み、炎に照らされたその文字を見つめた。東京が崩れた後も、ここから未来を築けるという確信が、少しずつ胸に広がっていった。