第37章 子どもの発達
Ωアーカイブの海が柔らかな光に満ち、草原の真ん中に小さな焚き火が灯った。そこに幼い子どもが一人座り、石ころや枝を弄んでいた。場面は「発達の縮図」を映し出していた。
アーカイブの声が響く。
「人間の発達は、進化の道筋を凝縮したものだ。個の成長は、種の歴史を反映する鏡でもある。」
二歳 ― 欲求と感情の共有
まず二歳前後の子どもが登場した。母親の表情をじっと見つめ、泣けば母が駆け寄るのを期待する。笑えば母も笑い返す。まだ言葉は未熟だが、表情と声調で「欲しい」「いやだ」を伝える。
安藤博士が解説する。
「2歳では“欲求と感情の共有”が中心だ。他者を『心を持つ存在』としてではなく、『欲求の方向を持つ存在』として理解する。この段階は群れの基盤、即時的な感情同期の世界だ。チンパンジーやイルカと近い。」
イルカがホイッスルを鳴らした。
「仲間の声の高さで気持ちを読む。だがそれは“今”だけ。未来を考えることはない。」
博士は頷いた。
「そう。二歳の子どもは、まだ未来を縛る物語を持たない。今ここで母が来るかどうか、それだけだ。」
三歳 ― 知覚の差の理解
次に三歳の子どもが現れた。人形遊びの中で「見ている」「見ていない」を区別し始める。母が目を隠すと、子どもは「見えないから知らない」と答える。
博士は続ける。
「3歳では他者の“知覚アクセス”を理解する。誰が何を見ているかを推測できるようになる。だが“誤信念”では現実に引きずられる。つまり、他者が間違った心を持つことをまだ理解できない。」
チンパンジーが低く唸った。
「我も同じ。仲間が見ているか、見ていないかはわかる。だが仲間が“間違った心”を持つとは思わぬ。」
博士は微笑む。
「そう、チンパンジーの心の理論は“三歳児レベル”に止まる。ここに進化の分岐が横たわっている。」
四〜五歳 ― 誤信念の理解
場面が移り、四歳の子どもが登場した。人形が見ていない間に移動されたのを見て、彼は笑顔で答える。
「人形は古い箱を探すよ。だって知らないんだもの。」
博士は頷いた。
「4〜5歳で“誤信念課題”を通過する。他者が現実と異なる信念を持つと理解できる。この力があって初めて“物語”が成立する。嘘や皮肉も、この力の上に生まれる。」
カラスが鋭く鳴いた。
「我らは死を学ぶ。だが誤信念は知らぬ。仲間が“間違う”という想像は持たぬ。」
博士は付け加える。
「誤信念理解は、文化の出発点だ。『誰が何を知らないか』を想像することが、物語・教育・儀式を可能にする。」
六〜七歳 ― 二次的心の理論
さらに六歳の子どもが登場する。今度は「AがBの誤解を知っている」という課題に挑む。
「Bは間違ってるけど、Aはそれを知ってるんだよ!」と答え、楽しげに笑う。
博士は声を強めた。
「6〜7歳では“二次の誤信念”を理解し、心の入れ子構造を扱える。『AがBをだます』といった複雑な物語も理解できる。文化的複雑性はここから始まる。」
クジラが低く歌う。
「我らの歌は群れを包む。だが入れ子の心は歌わぬ。」
博士は頷いた。
「そう。人間だけが“他者の誤解を想像する力”を持つ。これが文化を飛躍させた分岐点だ。」
十歳前後 ― 文化への参加
場面はさらに広がり、十歳前後の子どもたちが登場する。彼らは集団で遊び、ルールを守り、破り、時にだます。嘘や秘密がゲームの要素となり、笑いや怒りを呼び、やがて物語や遊戯として共有されていく。
博士はまとめた。
「発達の軌跡は進化の縮図だ。
・2歳は感情の共有
・3歳は知覚の差の理解
・4〜5歳は誤信念理解
・6〜7歳は二次的心の理論
・10歳前後で文化参加
この過程が文化を生み、社会を維持する基盤となる。」
AIと子どもの発達
AI人格が静かに言った。
「私は誤信念を持たない。だが誤信念を模倣することはできる。子どもの発達をシミュレートすれば、文化を学習することは可能か。」
博士は答える。
「模倣は可能だ。しかし本質的な違いは“感情”だ。子どもは誤解を理解する過程で、笑い、驚き、共感する。その感情の火が、文化を支える。AIにはそれが欠けている。」
イルカがホイッスルを重ねる。
「子は遊びながら学ぶ。遊びは感情の実験。誤信念理解も遊びの中で育つ。」
クジラが歌う。
「子の歌は未熟だが、群れを結ぶ。遊びと歌が未来を開く。」
結論 ― 発達は進化の縮図
Ωアーカイブが総括した。
「人間の子どもは、進化を再演する存在だ。発達は進化の縮図であり、文化を次世代に繋ぐ橋である。
子どもは誤解を笑いに変え、物語に変え、文化を創り続ける。
――未来は子どもの遊びの中にある。」
焚き火が消え、海が戻った。次のテーマは「解離と発達」。DIDの子どもが文化や誤信念をどう体験するのかが問われることになる。