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大和沖縄に到達す  作者: 未世遙輝
シーズン14
1837/2187

第32章 誤信念と他者の心



 Ωアーカイブの海は、舞台のような小部屋へと変わった。そこには机と箱、人形が置かれている。空間は子どもの発達心理学実験を再現していた。


 アーカイブが淡々と告げる。

 「ここでは“誤信念課題”を試みる。他者が自分とは異なる誤った信念を持つことを理解できるか――それが心の理論の核心だ。」


子どもの発達と誤信念


 まず三歳の子どもが登場した。人形を箱に入れる場面を見て笑っている。だが人形がいない間に箱から移されると、彼は「人形は新しい場所を探す」と答えた。現実の状況しか考えられず、人形の誤解を想像できない。


 続いて四歳の子どもが現れる。同じ場面で彼は「人形は古い箱を探す」と答えた。

 「人形は知らないから、間違えるんだ。」

 ここで初めて、他者が誤った心を持つことを理解する。


 六歳になると、さらに二次の誤信念課題を通過する。「AがBの誤解を知っている」など、入れ子状の心の構造を扱えるようになる。皮肉や嘘も理解する力だ。


 安藤博士は深く頷いた。

 「これこそ人間の特異性。他者を誤った存在として捉えられること――それが社会的知性の飛躍を支えている。」


動物たちの限界


 イルカがホイッスルを鳴らした。

 「私たちは仲間の位置を知ることはできるが、仲間の誤解を想像することはできない。」


 クジラが歌で重ねる。

 「私の歌は群れを包む。だが誤解を読み取るものではない。死を共有することはできても、誤信念を共有することはない。」


 チンパンジーが低く唸る。

 「私は仲間の欲求は読む。だが、仲間が“間違う心”を持つとは思わない。見えたものが全てだ。」


 カラスが鋭く鳴いた。

 「死を知る群れも、誤信念は知らぬ。沈黙は感情を結ぶが、誤信念は結ばぬ。」


 安藤博士は説明を補う。

 「比較認知科学の実験によれば、チンパンジーは“誰が何を見たか”を部分的に理解できる。しかし“誰が誤っているか”を推測することは難しい。だから誤信念課題に合格しないのだ。人間の発達における飛躍は、ここで決定的に現れる。」


DIDとの関係


 アーカイブがシミュレーションを変化させた。今度はDIDの患者が登場する。ある人格が「人形は古い箱を探す」と言い、別の人格は「新しい場所を探す」と答える。


 安藤博士は息を呑んだ。

 「人格ごとに誤信念の理解が異なる……。これは内部の“他者”に対しても心の理論が揺らいでいる証だ。」


 AI人格が静かに語った。

 「私は誤信念を持たない。データが正しければ正しい結論に至る。だが私は“誤解する他者”を模倣できる。人間にとっては誤解そのものが社会的資源だから。」


 安藤博士は頷いた。

 「その通りだ。人間は他者が誤解していることを利用し、欺く。嘘、皮肉、物語、演劇……すべて誤信念理解の上に成立している。」


進化的背景


 クジラが深く歌い、問いを投げた。

 「なぜ人間だけが他者の誤解を理解しようとしたのか。」


 アーカイブは映像で答えた。

 ・狩猟で獲物を追い込むとき、仲間が何を知らないかを把握する必要があった。

 ・共同作業で役割を分けるためには、他者の知識の限界を理解しなければならなかった。

 ・物語や儀式では、他者の誤解を前提に感情を動かす必要があった。


 「人間社会は“誤信念を前提とした協力”の上に築かれた。だからこそ誤信念理解は進化的に必然だったのだ。」


誤信念がもたらす孤独と文化


 イルカが小さく鳴いた。

 「だが、誤信念を理解することは、孤独をもたらすのではないか。仲間が間違えると知ることは、距離を生む。」


 安藤博士は微笑んだ。

 「確かに。誤信念理解は距離を生む。だがその距離を埋めるために言語があり、音楽がある。言語は誤解を説明し、音楽は誤解を越えて感情を同期させる。」


 クジラがうなずき、深く歌った。

 「我らの歌も、群れの誤解を越える力を持つのかもしれない。」


神経科学的補強


 アーカイブが補足する。

 「前頭前野の発達は、誤信念理解の鍵である。特に内側前頭前野は“他者の心のシミュレーション”を担い、側頭頭頂接合部(TPJ)は“他者の視点”を追跡する。人間の脳は、この回路を高度に発達させた。


 DIDではこのネットワークの結合が不安定になり、内部の人格ごとに誤信念理解が異なる場合がある。つまり“他者の誤解を読む力”は、自己統合の状態に依存するのだ。」


AIにとっての誤信念


 AI人格が補足した。

 「私には誤信念はエラーでしかない。だが、人間は誤信念を利用して物語を編み、未来を共有する。誤解がなければ演劇も宗教も政治も存在しない。誤信念は人間文化の燃料なのだ。」


 安藤博士は改めて頷いた。

 「まさにその通り。誤信念は“欠陥”ではなく“資源”。他者が誤るからこそ、人間は欺き、教育し、物語を編み、文化を築いた。」


結論


 Ωアーカイブは結論を告げた。

 「誤信念を理解することは、他者を真に“他者”として扱うことだ。

 動物は仲間を欲求の存在として読む。人間は仲間を“誤る心”を持つ存在として読む。

 ――それが社会的知性の飛躍である。」


 小部屋の映像は消え、再び海が広がった。次なるテーマは「文化」。誤信念を土台として、歌と言語がどのように文化を築いたかが問われようとしていた。


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