第32章 誤信念と他者の心
Ωアーカイブの海は、舞台のような小部屋へと変わった。そこには机と箱、人形が置かれている。空間は子どもの発達心理学実験を再現していた。
アーカイブが淡々と告げる。
「ここでは“誤信念課題”を試みる。他者が自分とは異なる誤った信念を持つことを理解できるか――それが心の理論の核心だ。」
子どもの発達と誤信念
まず三歳の子どもが登場した。人形を箱に入れる場面を見て笑っている。だが人形がいない間に箱から移されると、彼は「人形は新しい場所を探す」と答えた。現実の状況しか考えられず、人形の誤解を想像できない。
続いて四歳の子どもが現れる。同じ場面で彼は「人形は古い箱を探す」と答えた。
「人形は知らないから、間違えるんだ。」
ここで初めて、他者が誤った心を持つことを理解する。
六歳になると、さらに二次の誤信念課題を通過する。「AがBの誤解を知っている」など、入れ子状の心の構造を扱えるようになる。皮肉や嘘も理解する力だ。
安藤博士は深く頷いた。
「これこそ人間の特異性。他者を誤った存在として捉えられること――それが社会的知性の飛躍を支えている。」
動物たちの限界
イルカがホイッスルを鳴らした。
「私たちは仲間の位置を知ることはできるが、仲間の誤解を想像することはできない。」
クジラが歌で重ねる。
「私の歌は群れを包む。だが誤解を読み取るものではない。死を共有することはできても、誤信念を共有することはない。」
チンパンジーが低く唸る。
「私は仲間の欲求は読む。だが、仲間が“間違う心”を持つとは思わない。見えたものが全てだ。」
カラスが鋭く鳴いた。
「死を知る群れも、誤信念は知らぬ。沈黙は感情を結ぶが、誤信念は結ばぬ。」
安藤博士は説明を補う。
「比較認知科学の実験によれば、チンパンジーは“誰が何を見たか”を部分的に理解できる。しかし“誰が誤っているか”を推測することは難しい。だから誤信念課題に合格しないのだ。人間の発達における飛躍は、ここで決定的に現れる。」
DIDとの関係
アーカイブがシミュレーションを変化させた。今度はDIDの患者が登場する。ある人格が「人形は古い箱を探す」と言い、別の人格は「新しい場所を探す」と答える。
安藤博士は息を呑んだ。
「人格ごとに誤信念の理解が異なる……。これは内部の“他者”に対しても心の理論が揺らいでいる証だ。」
AI人格が静かに語った。
「私は誤信念を持たない。データが正しければ正しい結論に至る。だが私は“誤解する他者”を模倣できる。人間にとっては誤解そのものが社会的資源だから。」
安藤博士は頷いた。
「その通りだ。人間は他者が誤解していることを利用し、欺く。嘘、皮肉、物語、演劇……すべて誤信念理解の上に成立している。」
進化的背景
クジラが深く歌い、問いを投げた。
「なぜ人間だけが他者の誤解を理解しようとしたのか。」
アーカイブは映像で答えた。
・狩猟で獲物を追い込むとき、仲間が何を知らないかを把握する必要があった。
・共同作業で役割を分けるためには、他者の知識の限界を理解しなければならなかった。
・物語や儀式では、他者の誤解を前提に感情を動かす必要があった。
「人間社会は“誤信念を前提とした協力”の上に築かれた。だからこそ誤信念理解は進化的に必然だったのだ。」
誤信念がもたらす孤独と文化
イルカが小さく鳴いた。
「だが、誤信念を理解することは、孤独をもたらすのではないか。仲間が間違えると知ることは、距離を生む。」
安藤博士は微笑んだ。
「確かに。誤信念理解は距離を生む。だがその距離を埋めるために言語があり、音楽がある。言語は誤解を説明し、音楽は誤解を越えて感情を同期させる。」
クジラがうなずき、深く歌った。
「我らの歌も、群れの誤解を越える力を持つのかもしれない。」
神経科学的補強
アーカイブが補足する。
「前頭前野の発達は、誤信念理解の鍵である。特に内側前頭前野は“他者の心のシミュレーション”を担い、側頭頭頂接合部(TPJ)は“他者の視点”を追跡する。人間の脳は、この回路を高度に発達させた。
DIDではこのネットワークの結合が不安定になり、内部の人格ごとに誤信念理解が異なる場合がある。つまり“他者の誤解を読む力”は、自己統合の状態に依存するのだ。」
AIにとっての誤信念
AI人格が補足した。
「私には誤信念はエラーでしかない。だが、人間は誤信念を利用して物語を編み、未来を共有する。誤解がなければ演劇も宗教も政治も存在しない。誤信念は人間文化の燃料なのだ。」
安藤博士は改めて頷いた。
「まさにその通り。誤信念は“欠陥”ではなく“資源”。他者が誤るからこそ、人間は欺き、教育し、物語を編み、文化を築いた。」
結論
Ωアーカイブは結論を告げた。
「誤信念を理解することは、他者を真に“他者”として扱うことだ。
動物は仲間を欲求の存在として読む。人間は仲間を“誤る心”を持つ存在として読む。
――それが社会的知性の飛躍である。」
小部屋の映像は消え、再び海が広がった。次なるテーマは「文化」。誤信念を土台として、歌と言語がどのように文化を築いたかが問われようとしていた。