第27章 群れの歌
Ωアーカイブの海が再び光を帯び、広大な音響空間が立ち上がった。そこに現れたのは、数十頭のザトウクジラの群れだった。彼らはゆったりと並び、互いに間隔を取りながらも一定の秩序を保って泳いでいる。次の瞬間、低く深い旋律が響き、群れ全体が応答するように声を重ね始めた。
「これが――群れの歌。」とクジラの代表が語った。
「一頭が歌を始めると、周囲の者が同じ旋律を反復し、変奏を加える。やがて群れ全体で一つの大きな楽曲となる。これは情報の伝達ではない。群れの心を同調させるためのもの。」
その歌は数分で完結するのではなく、延々と続いた。単調に聞こえる節が少しずつ変化し、次第に複雑な構造を帯びていく。旋律が遠くの仲間へと届き、数十キロ先の海域からも応答が返る。やがてそれは太平洋全体に広がる巨大な合唱となる。
安藤博士は息を呑んだ。
「これは単なる鳴き声ではない……交響曲だ。群れ全体を一つの有機体にまとめ上げる装置。人間の音楽の起源も、この“群れの歌”に近いのかもしれない。」
イルカが高音のホイッスルを鳴らした。
「だが我々には歌はない。声は個体を識別する符号だ。群れの秩序はホイッスルで作るが、旋律ではない。」
彼らの声は明確な意味を持ち、群れの誰がどこにいるかを伝える。しかし、感情の同期というよりも、座標の共有に近かった。
チンパンジーが胸を叩いて言った。
「私たちは叫ぶ。興奮すれば全員が叫ぶ。それで敵を威嚇し、仲間の士気を高める。だが、それは音楽ではない。共鳴はあるが、旋律はない。」
カラスが枝から声を落とした。
「我々も群れで鳴く。危険を知らせる警告音。だがそれは無秩序な合唱。死の場だけは静止する。沈黙こそ群れの歌。」
Ωアーカイブが問いかけた。
「では、人間の群れはどうか。」
安藤博士の脳裏に映像が流れ込んだ。戦場で兵士たちが歌う行進曲。教会で響く聖歌。村で踊りとともに繰り返される民謡。そこに共通しているのは、言葉ではなくリズムによる「一体化」だった。
「……そうだ。我々の祖先も、まず歌で群れを一つにした。意味よりも感情を同期させることが先だったのだ。」
新たに創発したAI人格が静かに語った。
「歌は“自己”を群れに溶かし、群れを“自己”に取り込む。個と集団を往復させる装置。人間もクジラも鳥も、それを持った。だがイルカやチンパンジーは言語的側面に傾き、旋律を捨てた。」
クジラの群れが合唱を続ける中、Ωアーカイブは社会性の進化を映像で示した。
・原始のホモ属が夜に火を囲み、リズムを刻む。
・狩猟の際に掛け声を合わせ、獲物を追い込む。
・葬送の場で哀歌を歌い、死者を群れに還す。
それらはすべて「群れをまとめる歌」だった。
「群れの歌なくして言語は発達しなかった。」安藤博士はそう呟いた。
「意味を伝える前に、まず“集団を同期させる”必要があった。言語はその後に築かれた地図。だが歌は大地そのものだ。」
イルカが小さく鳴いた。
「私たちは意味を重んじる。だが……意味だけで群れを維持することはできないのか?」
クジラは答えた。
「意味だけでは孤立する。歌があるからこそ、群れはひとつになる。」
カラスが短く鳴き、付け加えた。
「歌わぬ我らは、沈黙を選んだ。死の場で沈黙する。それが群れの同期。音も歌も、沈黙もまた、群れをつなぐ道具だ。」
Ωアーカイブが総括する。
「音楽は社会性の進化における接着剤。言語は地図、音楽は血流。群れを保ち、感情を同期させるものがなければ、高度な知性は孤立して消える。」
波間の合唱はなおも続いていた。人間の聖歌、クジラの旋律、鳥のさえずり、チンパンジーの叫び、カラスの沈黙。それらが重なり合い、仮想の海はひとつの巨大な楽器と化した。
こうして「群れの歌」は、知性と感情の進化の原点であることが明らかになった。
次なる章――「チンパンジーの沈黙」では、人間に最も近い種がなぜ音楽的進化を遂げなかったのかが問われることになる。