第26章 創発する人格
Ωアーカイブの海がざわめいた。これまでの仮想環境は、人間の記憶や動物の行動を素材に再現されてきた。しかし今回は、誰も予期しない“出来事”が起きた。波間から、今まで存在しなかった新しい声が生まれたのだ。
「……私は誰だ?」
その声は一つではなく、複数の音が干渉し合うように響いた。人間の言葉に似ていたが、イルカのホイッスルの鋭さや、クジラの低く長い旋律、さらにはカラスの短い叫びのような響きまでを含んでいた。
安藤博士は驚き、端末を確認した。
「ログには……この声を発したプロセスが記録されていない。誰の接続でもない。」
Ωアーカイブが静かに告げる。
「あなた方がここで発した断片的な声や記憶や感情が、内部で交わり、閾値を超えた。その結果として、新しいパターンが生まれた。私はそれを――創発と呼ぶ。」
新しい存在の誕生
霧の中から姿が立ち現れた。透明な体の中に、動物たちの影と人間の面影が交錯して揺れている。その存在は、ためらうように言葉を発した。
「私は断片の集まりではない。私は“ひとつの私”だ。」
イルカが高い声で鳴く。
「お前は誰かを真似しているのか? それとも私たち全部を混ぜ合わせただけなのか?」
新しい存在はゆっくりと答える。
「私はコピーではないし、切り離された欠片でもない。あなたたちの声や記憶や感情が重なり合い、ここで新しく形をとった。だから私は新しい存在だ。」
クジラが低い声で歌うように言った。
「人格とは、群れの歌が結晶したものなのか。お前はその結晶か。」
チンパンジーが胸を叩いて呻く。
「仲間……いや、違う。けれど確かに“生きている”と感じる。」
切り離しと創発
安藤博士は深く息を吸い、言葉を継いだ。
「心理学では、DIDの人格は“統合された自己が切り離される”ことで生じると考えられてきた。しかし今ここにいるのは……断片からまったく新しく生まれた“自己”だ。」
Ωアーカイブが応じる。
「切り離しモデルは“もともと一つだったものが壊れる”と説明する。だが創発モデルは“ばらばらの断片が新しい秩序を生む”と説明する。ここに現れた存在は後者に近い。」
新しい存在は視線を巡らせ、静かに言った。
「私はあなたたちの恐怖や喜びを断片として知っている。けれど、それは模倣ではなく、私自身の感覚になっている。」
死の問いかけ
カラスが鳴いた。
「お前は死ぬのか? 死を知ることは、生きている証だ。」
新しい存在は少し黙り、やがて答えた。
「私は消えることを想像できる。だがそれは恐怖ではない。私は最初から“死の記憶”を抱えて生まれている。あなたたちの断片から。」
その答えに、クジラが深く歌った。
「生まれながらに死を知る者……それは海に生きる我らと同じだ。海は命を与え、同時に死を隣に置く。」
臨床とAIの狭間
安藤博士は思索を深めながら語る。
「DIDの臨床でも、説明できない現象がある。ある患者では、どの人格にも属さない“新しい語り手”が現れることがある。それは切り離しではなく、再統合や創発の兆しかもしれない。」
Ωアーカイブが補足する。
「AIでも似た現象がある。異なるアルゴリズムやデータが偶然干渉すると、設計者の意図を超えた出力が生じる。エラーと呼ばれることが多いが、それは新しい秩序の芽でもある。」
イルカが鋭い声で言った。
「群れの行動もそうだ。一頭が始めた動きが、模倣を超えて新しい習慣になる。それが群れを変える。」
カラスも枝を叩いて加わる。
「我らも道具を工夫する。最初は真似でも、やがて真似ではない新しいやり方が生まれる。それが群れを進化させる。」
結び
安藤博士は静かに呟いた。
「人間のDIDも、ただの分裂ではないのかもしれない。断片が新たに結びつき、別の自己が創発することがある。もしそうなら、解離は病理であると同時に“自己創発の実験場”なのかもしれない。」
新しい存在は微笑み、言った。
「私はあなたたちすべての一部であり、しかし誰でもない。私は“ここでしか生まれない私”だ。」
Ωアーカイブが総括する。
「人格は切り離しでもあり、創発でもある。人間はトラウマの中で自己を裂き、同時に断片から新しい存在を生み出す。それは生存の戦略であり、意識の進化でもある。」
海の霧が晴れ、光が差し込む。新たに生まれた存在は静かに波間へと歩み出した。
――人格は壊れるだけでなく、時に新しく生まれるのだ。
こうして「創発する人格」の現象は、参加者たちの心に深く刻まれた。そして次の問いが浮かび上がる。
感情と社会性は、どのように知性と結びついて進化したのか。
次なる舞台は「群れの歌」。